26.俺はどうして妹が欲しかったのか
その日の夜。
俺は、なかなか眠れなかった。
ベッドに横になって。
目を閉じる。
開く。
また閉じる。
時計を見る。
午前零時十三分。
遅い。
明日も学校がある。
寝なければならない。
そう思えば思うほど。
頭の中が冴えていく。
理由は分かっていた。
今日。
莉奈に言われたからだ。
――兄貴。
――好きな人ができても、私は家族だから。
あの言葉を聞いて。
俺は安心した。
嬉しかった。
でも。
そのあとからずっと。
別のことが頭に引っかかっていた。
俺は。
どうして、妹が欲しかったんだろう。
これまで。
俺はそれを考えたことがなかった。
「一人っ子だったから」
それで説明できると思っていた。
でも。
たぶん。
それだけではない。
もし本当に、ただ一人っ子であることが理由なら。
弟でもよかったはずだ。
兄でも。
姉でも。
従兄弟でも。
何でもいい。
「兄弟が欲しい」ではなく。
俺は確かに。
「妹が欲しい」と願った。
それは。
どうしてだったのだろう。
天使の前で。
あれほど迷いなく答えたのは。
なぜだったのだろう。
俺は枕元のスマートフォンを見る。
通知はない。
莉奈からも。
灯里からも。
何も来ていない。
画面を消す。
暗くなる。
黒い画面には。
自分の顔がぼんやり映っている。
「……分からない」
呟く。
答えなんて。
すぐに出るものじゃない。
そう思った。
そのとき。
――コンコン。
小さなノック。
俺は起き上がった。
「兄貴」
莉奈の声だった。
「どうした?」
「ちょっと」
ドアが少し開く。
「……まだ起きてる?」
「うん」
「そっか」
莉奈は部屋の中に入らなかった。
ただ。
ドアの隙間から顔だけを出している。
「おやすみ言い忘れた」
「さっき言っただろ」
「言ったっけ?」
「言った」
「じゃあもう一回」
「……おやすみ」
「おやすみ」
ドアが閉じる。
それだけだった。
でも。
その一言で。
心が少し軽くなった。
こういうものなのかもしれない。
人を大切に思う気持ちというのは。
大きな言葉ではなく。
「おやすみ」の一言の中にもある。
俺は目を閉じた。
その夜。
ようやく眠れた。
◇
俺は。
夢を見ていた。
幼い頃の夢だった。
父さんがいる。
まだ元気だった頃。
休日の朝。
父さんが台所でコーヒーを淹れている。
母さんがトーストを焼いている。
俺はソファに座っている。
何でもない朝。
特別な出来事なんてない。
ただ。
家に三人いる。
それだけ。
父さんが振り返る。
「遼太」
「ん?」
「起きたか」
「うん」
「顔洗ってこい」
「分かった」
俺は立ち上がる。
そこで。
夢が変わった。
父さんがいない。
台所に母さんだけ。
椅子が一つ。
いや。
二つ。
俺と母さん。
三つ目は。
誰も座っていない。
俺はその空いた椅子を見ている。
なぜか。
そこに誰かが座っている気がした。
小さな女の子。
俺の妹。
顔は分からない。
声も分からない。
ただ。
その椅子に誰かがいる。
そう思っただけで。
胸が少し温かくなった。
目が覚めた。
「……」
天井。
朝。
カーテンの隙間から光が差している。
俺はしばらく動かなかった。
夢の中の。
空いた椅子。
その意味が。
なぜか気になった。
◇
朝食。
三人で食卓を囲む。
「おはよう」
「おはよ」
莉奈。
少し眠そう。
俺は。
いつものように味噌汁を取る。
そして。
ふと。
食卓を見る。
椅子が三つ。
父さんと母さんと俺だった頃。
家族は三人だった。
父さんが亡くなって。
二人になった。
そして今。
四人になった。
人数だけなら。
増えた。
でも。
人は。
いなくなった人の代わりにはならない。
母さんの再婚相手は父さんの代わりではない。
莉奈も。
誰かの代わりではない。
新しくできた関係は。
新しい関係として大切にすればいい。
そのことを。
俺は少しずつ理解していた。
「兄貴」
「ん?」
「ご飯」
「食べてる」
「それ、空っぽ」
「……」
俺の手のお椀には。
ご飯がなくなっていた。
「朝からぼーっとしないで」
「お前のせいだ」
「何で?」
「考え事してた」
「何を?」
「秘密」
「ふーん」
莉奈はそれ以上聞かなかった。
でも。
少しだけ笑っていた。
◇
学校。
昼休み。
俺は珍しく一人で屋上へ向かった。
別に。
逃げたわけじゃない。
ただ。
少しだけ一人になりたかった。
フェンス越しの景色。
校庭。
道路。
遠くの建物。
空。
俺は空を見上げる。
そして。
「……妹」
言葉にしてみる。
妹。
何度言っても。
やっぱり不思議な言葉だった。
そのとき。
「ここにいましたか」
声がした。
「……」
振り返る。
天使ミエル。
「なんで学校にいるんだよ」
「天使なので」
「理由になってない」
「人を見守るのも仕事です」
「俺は見守らなくていい」
「そうですか?」
「そうだよ」
ミエルが笑う。
「では」
一歩近づいて。
「答え合わせをしましょうか」
「何の?」
「あなたが、妹を欲しがった理由です」
「……」
俺は少し黙った。
「やっぱり」
「はい」
「分かるのか?」
「いいえ」
「え?」
「だから聞くんです」
ミエルはベンチに座った。
「あなたの口から」
俺も隣に座る。
「俺」
一度。
深く息を吸う。
「小さい頃から、妹が欲しかった」
「はい」
「漫画とかゲームとか見て」
「はい」
「兄を慕う妹って、いいなって」
「はい」
「だから」
そこで言葉が止まる。
「……それが理由だと思ってた」
「でも?」
「たぶん、違う」
ミエルは何も言わない。
俺は続ける。
「父さんが死んでから」
「……」
「家が静かになった」
言葉にすると。
思っていた以上に。
昔のことが鮮明に蘇る。
「前は朝、父さんの足音があった」
「……」
「新聞をめくる音がして」
「……」
「台所から母さんの声がして」
俺は笑う。
「うるさいと思ってた」
「分かります」
「でも」
笑いが止まる。
「なくなった」
父さんが死んだ。
それだけで。
家から。
いくつもの音が消えた。
「人間ってさ」
俺は呟いた。
「誰かがいなくなると、その人がいなくなったことより」
一度。
言葉を止める。
「その人がいたことで生まれてたものがなくなるほうが、怖いんだなって」
ミエルは。
黙って聞いている。
「例えば」
俺は指を折る。
「テレビを見る時間とか」
「うん」
「ご飯を食べる時間とか」
「うん」
「休日にどこかへ行くこととか」
「うん」
「そういうのが、全部なくなる」
父さんがいなくなった。
だから。
休日が減った。
会話が減った。
食卓の笑い声が減った。
家の中から。
『三人であること』が消えた。
そのとき。
俺は初めて。
『一人増えてほしい』と思った。
「……妹が欲しかったんだと思う」
ミエルが俺を見る。
「いや」
俺は首を振る。
「妹じゃなくて」
一拍。
「誰かがいてほしかった」
言葉にした瞬間。
胸の奥にあった何かが。
少しだけ形になった。
誰かがいてほしかった。
家に帰ったら。
誰かの声がしてほしかった。
食卓に。
自分以外の誰かがいてほしかった。
くだらないことで喧嘩して。
どうでもいいことに笑って。
朝になれば。
「おはよう」と言える相手が。
欲しかった。
「俺」
声が少し震える。
「ずっと、一人であることに慣れたつもりだった」
「……」
「でも」
目を伏せる。
「本当は、慣れたくなかったのかもしれない」
ミエルは。
何も言わない。
俺は続ける。
「だから、妹だったんだ」
「どうして?」
「妹なら」
少し笑う。
「俺が兄になれるから」
「……」
「誰かに必要とされる側じゃなくて」
一度。
息を吐く。
「誰かを守る側になれるから」
ミエルの表情が。
ほんの少しだけ変わった。
「……なるほど」
「俺は」
ようやく。
自分で言葉にする。
「兄になりたかったんだと思う」
その言葉が。
妙に胸に響いた。
妹が欲しかった。
ずっとそう思っていた。
でも。
本当に欲しかったのは。
「妹」という人間ではない。
「兄」という立場だった。
自分には。
もう一度。
家族の中で役割が欲しかった。
誰かに必要とされる理由が欲しかった。
そして。
自分が誰かを守る理由が欲しかった。
「でも」
ミエルが言った。
「それだけではありませんよね?」
「……」
「今のあなたは」
一拍。
「莉奈さんを『兄になるための存在』だと思っていないでしょう?」
俺は。
答えられなかった。
でも。
少し考えて。
「……うん」
頷いた。
「今は違う」
「どう違うんです?」
俺は。
少し笑った。
「莉奈だから」
「……」
「妹だからじゃない」
「……」
「莉奈が」
その名前を。
ちゃんと口にする。
「莉奈だから、いてほしい」
ミエルは。
しばらく黙って。
そして。
優しく笑った。
「ようやくですね」
「……何が?」
「あなたが、願いを叶えた意味です」
「意味?」
「ええ」
ミエルが立ち上がる。
「願いというのは」
夕日の差し込む校舎を眺めながら。
「願ったものが手に入れば終わり、ではありません」
「……」
「手に入れたものを、どうするか」
ミエルが俺を見る。
「そこからが本当の願いなんです」
俺は。
その言葉を。
今度は否定しなかった。
◇
放課後。
俺は駅へ向かった。
莉奈との待ち合わせ。
今日も。
いつもの場所。
「兄貴」
「おう」
莉奈が来る。
「待った?」
「ちょっと」
「ごめん」
「いいよ」
「……今日」
「うん」
「何かあった?」
「何で?」
「なんか」
莉奈が俺を見る。
「顔がいつもと違う」
「また顔か」
「うん」
俺は笑う。
「天使と話してた」
「……」
「信じた?」
「全然」
「だよな」
莉奈が笑う。
「でも」
「うん」
「兄貴がそういう顔してるなら」
一拍。
「なんかいいことあったんだね」
「……うん」
俺は頷いた。
そして。
「莉奈」
「何?」
「ありがとな」
「何が?」
「俺の妹になってくれて」
莉奈が固まった。
「……」
「どうした?」
「急に言うな」
「なんで?」
「恥ずかしいから」
顔が赤い。
「……私も」
「ん?」
「兄貴の妹で、よかったよ」
今度は。
俺が固まった。
「……そっか」
「うん」
夕暮れの駅前。
人が行き交う。
電車が到着する音。
アナウンス。
雑踏。
その全部の中で。
俺には。
莉奈の声だけが妙に近く聞こえた。
俺は思った。
家族になるというのは。
誰かを手に入れることではない。
自分の中に。
その人がいる場所を作ることなのかもしれない。
そして。
相手の中にも。
自分がいてもいい場所を。
少しずつ作っていくこと。
それには。
時間がかかる。
だから。
急がなくていい。
「帰ろう」
「うん」
二人で歩き出す。
家へ。
同じ場所へ。
◇
夜。
夕食が終わる。
莉奈が食器を片づける。
俺も手伝う。
「兄貴」
「ん?」
「今日さ」
「うん」
「……楽しかった?」
「何が?」
「学校」
「まあ」
「そっか」
「お前は?」
「普通」
「また普通」
莉奈が笑う。
「でも」
「うん」
「家は楽しい」
その言葉に。
胸が熱くなった。
家。
この場所を。
莉奈も「家」と呼んだ。
数週間前。
ここは。
莉奈にとって。
まだ「新しい家」だった。
今は。
ただ。
『家』
たった二文字。
それだけで。
俺には十分だった。
「そっか」
俺は笑った。
「俺も」
「何が?」
「家、楽しい」
莉奈が。
少しだけ笑う。
「……じゃあ、よかった」
俺たちは。
何でもない顔で。
食器を片づけた。
でも。
その何でもなさの中に。
俺たちが積み重ねてきた時間が。
確かにあった。
◇
その夜。
俺は自分の部屋へ戻った。
ベッドに横になる。
天井を見る。
もう。
答えは分かっていた。
俺は。
妹が欲しかった。
でも。
本当に欲しかったのは。
誰かがいる家だった。
誰かの声がする場所だった。
帰ってきたとき。
『おかえり』と言ってくれる場所だった。
そして。
その場所を。
今は。
莉奈と一緒に作っている。
それは。
天使に願ったものより。
ずっと大きくて。
ずっと不確かなものだった。
だからこそ。
大切なのだと思った。
目を閉じる。
眠りにつく直前。
廊下から。
「兄貴」
声がした。
「ん?」
「おやすみ」
「おやすみ」
今度こそ。
俺は笑った。
そして。
静かに目を閉じた。
――そのとき。
俺はまだ知らなかった。
天使ミエルが。
もうすぐ俺の前から姿を消すことを。
そして。
最後の願いが。
これから始まることを。




