25.妹の宣戦布告
人は。
失ってから大切さに気づくことがある。
それと同じくらい。
失う前から、失うことを恐れることもある。
たぶん、莉奈は。
後者だった。
俺は、それを知らなかった。
いや。
知らなかったというより。
知ろうとしていなかった。
俺はずっと。
莉奈が家にいて。
「兄貴」と呼んでくれて。
たまに俺をパシリにして。
一緒に帰って。
一緒に食事をする。
そんな日々が、このまま続いていくものだと思っていた。
家族になったのだから。
家族は、家族のままだ。
そんな。
あまりにも当たり前のこととして。
何も疑っていなかった。
だから。
その日の朝。
「兄貴」
「ん?」
「昨日の話」
「昨日?」
莉奈は玄関で靴を履きながら言った。
「灯里さんのこと」
「ああ」
「本当に好きなの?」
「……うん」
「そう」
それだけだった。
莉奈は、それ以上何も言わない。
俺も何も言わない。
駅まで歩く。
朝の道。
いつもと同じ。
なのに。
昨日までとは、ほんの少しだけ違う。
人間は。
大きな変化より。
小さな違和感のほうに敏感なのかもしれない。
会話の間が少し長い。
歩く速度が少し違う。
目が合う回数が少し減る。
そんな些細な変化が。
妙に気になる。
「莉奈」
「何?」
「怒ってる?」
「怒ってない」
「本当に?」
「うん」
「ならいいけど」
「……兄貴」
「ん?」
「私」
一瞬。
言葉が止まる。
「応援するから」
「え?」
「灯里さんとのこと」
「……」
「だから」
莉奈が前を向いたまま言う。
「ちゃんと大切にして」
「うん」
「途中で適当にしないで」
「しないよ」
「家族より優先しろとは言わないけど」
「うん」
「家族を後回しにするのも駄目」
「分かった」
莉奈がこちらを見る。
「約束ね」
「ああ」
そして。
ほんの少しだけ。
いつもの顔に戻った。
俺は安心した。
そのときは。
それだけだと思っていた。
でも。
本当は。
莉奈が言った『家族を後回しにしないで』という言葉には。
もっと別の意味があった。
それを。
俺はあとになって知ることになる。
◇
学校。
朝のホームルーム。
俺は席についていた。
灯里が来る。
「おはよう」
「おはよう」
「昨日、何かあった?」
「え?」
「なんか考え事してる」
「……妹と少し話した」
「そっか」
灯里が席の横に立つ。
「何て?」
「灯里のこと」
「えっ私?」
「うん」
灯里の頬が少し赤くなる。
「……そっか」
「応援するって」
「え?」
「……いやなんでもない」
灯里が少し驚く。
俺は少し笑った。
すると。
灯里も笑う。
「よかった」
「何が?」
「神谷くん、ちゃんと家族を大事にしてるから」
「当然だろ」
「うん」
その返事が。
少しだけ嬉しかった。
家族も。
恋も。
どちらも。
俺にとって大切だ。
だから。
どちらかを犠牲にする必要なんてない。
そのときの俺は。
そう思っていた。
◇
昼休み。
俺は灯里と教室の外に出た。
校舎の端。
人の少ない場所。
「ねえ」
灯里が言う。
「うん」
「神谷くん」
「何?」
「文化祭の準備のこと」
「文化祭の準備?」
「うん」
「どうした?」
「もう少しで終わっちゃうね」
「ああ」
文化祭の準備も終盤だ。
最初は遠かった。
今では。
当たり前のように一緒にいる。
資料を見る。
相談する。
作業をする。
くだらないことで笑う。
俺たちの間には。
いつの間にか。
『一緒にいるのが自然』という感覚ができていた。
「終わったら」
灯里が言う。
「少し寂しいね」
「……そうかも」
「私」
灯里は窓の外を見る。
「最近、学校に来るのが前より楽しみなんだ」
「それは良かった」
「神谷くんがいるから」
「…………」
心臓が。
また騒がしくなる。
「そういうこと、普通に言うんだな」
「今、言いたかったから」
灯里が笑う。
「神谷くんは?」
「俺?」
「学校、楽しい?」
少し考える。
「うん」
「何で?」
「……灯里がいるから」
自分で言って。
恥ずかしくなる。
灯里は。
もっと恥ずかしそうだった。
しばらく。
二人とも何も言えなかった。
でも。
沈黙は嫌じゃなかった。
ただ。
その時間の中に。
これから変わっていくものがあるような気がした。
◇
放課後。
俺は駅へ向かった。
今日は文化祭準備を少して帰宅した。
いつもより早い。
駅前のベンチ。
そこに。
莉奈がいた。
「……お前、何で?」
「待ってた」
「俺を?」
「うん」
「どうした?」
「一緒に帰ろうと思って」
「そっか」
俺は隣に座る。
「今日、どうだった?」
「普通」
「学校?」
「普通」
「友達は?」
「普通」
「全部普通じゃないか」
「じゃあ、楽しかった」
「それはよかった」
莉奈が黙る。
「兄貴」
「ん?」
「今日」
「うん」
「灯里さんといた?」
「いた」
「楽しかった?」
「うん」
「……そう」
また。
少しだけ間が空く。
「兄貴」
「何?」
「私」
莉奈が前を向いたまま言う。
「兄貴が恋人作るの、嫌じゃないよ」
「……うん」
「むしろ」
「うん」
「ちゃんと好きな人できてよかったと思う」
「ありがとう」
「でも」
「でも?」
「ちょっとだけ」
莉奈が言葉を探す。
「寂しい」
俺は黙った。
その言葉の意味を。
すぐには理解できなかった。
「……どうして?」
「分かんない」
「寂しいって?」
「うん」
「俺が誰かを好きになったから?」
「……たぶん」
莉奈が苦笑する。
「私、子供なんだと思う」
「何で?」
「兄貴に新しい大事な人ができたら」
一拍。
「今までみたいに、私に構ってくれなくなるのかなって」
俺は。
その言葉を聞いて。
ようやく少し分かった。
莉奈が恐れているのは。
灯里そのものではない。
灯里によって。
家族の中での自分の場所が変わることだ。
それは。
考えてみれば。
当たり前だった。
父親が再婚して。
新しい母親ができた。
新しい家に来た。
新しい兄ができた。
その兄に。
今度は新しい恋人ができる。
環境は。
少しずつ変わっていく。
自分が何もしなくても。
人間関係は勝手に動いていく。
だから。
不安になる。
「莉奈」
「うん」
「俺は」
どう言えばいいのか考える。
「灯里が大切でも」
「……」
「お前が妹で大切なのは変わらない」
「うん」
「俺が恋人作ったからって」
「……」
「お前との時間がなくなるわけじゃない」
「……本当に?」
「本当」
莉奈は黙った。
「家族は」
俺は続ける。
「一人増えたら、一人減るものじゃない」
「……」
「俺はそう思ってる」
莉奈は。
少しだけ目を伏せた。
「……そっか」
そして。
小さく笑った。
「ならいい」
「うん」
「でも」
「何?」
「兄貴が調子に乗ったら」
「うん」
「私が止めるから」
「よろしくお願いします」
「任せて」
その顔は。
久しぶりに。
いつもの莉奈だった。
◇
家に帰る。
「ただいま」
「おかえり」
母さん。
莉奈も。
「ただいま」
三人で夕食。
今日の話をする。
母さんが仕事の話をする。
俺が学校の話をする。
莉奈が友達の話をする。
特別なことは何もない。
それでも。
俺は。
この時間が好きだった。
人は。
幸せを。
大きな出来事だと思いがちだ。
告白。
結婚。
成功。
そんなものを。
幸せだと思う。
でも。
本当に幸せなのは。
こういう。
どうでもいい話をしている時間なのかもしれない。
今日、学校で何があった。
夕飯は何を食べる。
明日は何時に起きる。
そんな話が。
何年も積み重なったとき。
それが。
「自分の人生」になる。
「兄貴」
「ん?」
「明日」
「うん」
「一緒に行こ」
「分かった」
「あと」
「何?」
「コンビニ」
「また?」
「プリン」
「結局それか!」
莉奈が笑う。
俺も笑う。
母さんも笑う。
その笑い声を聞きながら。
俺は思った。
守りたい。
この時間を。
でも。
時間は。
自分の手で止めることができない。
家族も。
恋も。
人間関係も。
少しずつ変化していく。
だからこそ。
その変化を。
怖がるだけではなく。
受け入れなければならない。
俺は。
まだ高校生だ。
人生について。
何も分からない。
でも。
一つだけ。
最近分かってきたことがある。
大切な人が増えるということは。
大切にしなければならないものが増えるということだ。
それは。
嬉しいことでもあり。
少しだけ怖いことでもある。
でも。
俺は。
その怖さから逃げたくはなかった。
◇
夜。
部屋に戻る。
ベッドに横になる。
スマートフォンを見る。
灯里からメッセージが来ている。
『今日もありがとう』
『こちらこそ』
『明日も会えるね』
『うん』
送信。
少しして。
『楽しみ』
その三文字を見た瞬間。
胸が熱くなった。
俺も。
『俺も』
と返す。
スマートフォンを置く。
そのとき。
廊下から声がした。
「兄貴」
「ん?」
「おやすみ」
「おやすみ」
「……あと」
「何?」
「明日」
「うん」
「一緒に朝ご飯食べようね」
「当たり前だろ」
「……うん」
足音が遠ざかる。
俺は。
その音を聞きながら。
目を閉じた。
今日。
俺は初めて知った。
家族を大切にするということは。
家族を自分のそばに縛りつけることではない。
その人が。
自分の人生を歩いていくことを。
ちゃんと喜ぶことだ。
莉奈も。
いつか。
自分の人生を歩く。
俺も。
自分の人生を歩く。
灯里も。
自分の人生を歩く。
それでも。
時々。
同じ場所に戻ってきて。
「おかえり」
と言えるなら。
それはきっと。
家族なのだろう。
そう思いながら。
俺は眠りについた。
そして。
その夜。
俺はまだ知らなかった。
――明日。
天使ミエルから。
「あなたの願いは、もう叶っています」と告げられることを。




