24.妹、兄の恋を知る
翌朝。
俺は、いつもより少しだけ早く起きた。
別に理由があるわけじゃない。
ただ目が覚めた。
それだけだ。
……いや。
たぶん。
昨日のことを考えていた。
灯里が言った。
――今度は、私が神谷くんを助けるね。
その言葉が。
ずっと頭に残っている。
俺はこれまで。
助ける側だった。
人に頼られることを、嬉しいと思っていた。
役に立つことが、自分の居場所を作ってくれるような気がしていた。
でも。
誰かに頼るということは。
その人を信じるということなのかもしれない。
自分だけではできないことを。
この人なら任せてもいいと思うこと。
それは。
決して弱さではない。
むしろ。
人との間に信頼を作るためには。
必要なことなのかもしれない。
「兄貴」
隣から声がした。
「ん?」
莉奈を見た。
「早い」
「ごめん」
並んで歩く。
朝の空気は冷たい。
吐いた息が、ほんの少し白い。
「兄貴」
「ん?」
「昨日」
「うん」
「帰ってくるの遅かった」
「文化祭の準備」
「知ってる」
「なんで?」
「昨日聞いたから」
「ああ」
莉奈は黙った。
数歩。
そして。
「……楽しかった?」
「うん」
「何が?」
「飾り付け」
「へえ」
「あと」
俺は。
ほんの少しだけ迷った。
「灯里と話したのが」
莉奈の歩みが。
ほんの一瞬だけ遅くなった。
「……ふーん」
「どうした?」
「別に」
「またそれか」
「うん」
莉奈は前を見る。
それ以上は聞かなかった。
俺も。
聞かなかった。
駅に着く。
「じゃあ」
「うん」
「今日も遅くならないように帰ってきて」
「努力する」
「絶対じゃないんだ」
「文化祭準備次第」
「そっか」
莉奈が歩いていく。
俺も自分の電車に乗る。
そのとき。
ふと。
莉奈の横顔を思い出した。
少し。
寂しそうだった気がした。
でも。
理由は分からない。
◇
学校。
教室に入る。
「おはよう、神谷くん」
「おはよう」
灯里が笑っている。
「眠そう」
「ちょっと」
「昨日、遅かった?」
「うん」
「寝れなかった?」
「そう」
「お疲れさま」
「灯里も」
「……ありがとう」
灯里が笑う。
昨日よりも。
少しだけ距離が近い気がする。
そのことを意識すると。
胸の奥が妙に落ち着かなくなる。
俺は席についた。
そして。
机の中からノートを出す。
「神谷くん」
「ん?」
「昨日のこと」
「うん」
「本当にありがとう」
「もういいって」
「ううん」
灯里が首を振る。
「ちゃんと伝えたかったから」
「……そっか」
その言葉が。
嬉しかった。
「私ね」
「うん」
「誰かに頼るのって、やっぱりまだちょっと怖い」
「うん」
「でも」
灯里が少しだけ笑う。
「神谷くんなら、いいかなって思った」
心臓が。
また。
少しだけ速くなる。
「……ありがとう」
「何で神谷くんがありがとうなの?」
「それは」
言葉が続かない。
灯里が笑う。
「また困ってる」
「困ってない」
「顔に出てる」
「それ禁止!」
二人で笑った。
その時間は。
俺にとって。
少しだけ特別だった。
◇
昼休み。
俺は一人で弁当を食べていた。
そのとき。
友達が言った。
「なあ神谷」
「ん?」
「お前さ」
「何?」
「白石と最近仲良くね?」
「……そうかな」
「そうだろ」
「普通じゃない?」
「いや、絶対なんかある」
「ないって」
「顔が違う」
「……また顔か」
俺はため息をついた。
「でも」
自分でも。
少しだけ認め始めている。
灯里と話すのは楽しい。
もっと話したい。
明日も会いたい。
それは。
妹と一緒にいたいという感情とは。
少し違う。
家に帰れば会える家族と。
学校へ行けば会えるクラスメイト。
どちらも大切。
でも。
その大切さには。
違う形がある。
その違いを。
俺はまだ完全には説明できない。
「神谷」
「ん?」
友達が笑う。
「もしかして、好きなの?」
「……」
俺は。
答えられなかった。
でも。
否定もできなかった。
「図星じゃん」
「うるさい」
友達が笑う。
俺も笑った。
その会話を。
少し離れた場所から。
灯里が聞いていたことに。
俺は気づかなかった。
◇
放課後。
文化祭準備。
俺と灯里は教室に残っていた。
「この部分だけ終わらせよう」
「うん」
二人で作業をする。
ペンを渡す。
紙を押さえる。
時々、肩が触れそうになる。
そんなたびに。
俺は少し意識してしまう。
灯里も。
少しだけ恥ずかしそうに笑っていた。
「神谷くん」
「ん?」
「さっき」
「何?」
「昼休み」
「……聞いてた?」
「少しだけ」
「…………」
顔が熱くなる。
「ごめん」
「何で謝るの?」
「いや」
「嬉しかったけど」
「え?」
俺は。
灯里を見る。
灯里も。
こちらを見ている。
一瞬。
教室の空気が変わった気がした。
「……神谷くん」
「うん」
「私」
灯里は言いかけて。
やめた。
「……何でもない」
「また?」
「うん」
笑う。
俺も笑う。
でも。
さっきの言葉が。
胸の奥に残った。
たぶん。
もう。
この感情に名前をつけても。
いいのかもしれない。
――好き。
そう思った。
その瞬間。
自分でも驚くほど。
気持ちが静かになった。
ああ。
これが。
好きということなのか。
誰かに会いたい。
話したい。
笑っていてほしい。
自分もその笑顔の理由の一つになりたい。
妹に対して思う気持ちとは。
明らかに違う。
俺は。
初めて。
それを自分で理解した。
◇
家に帰る。
「ただいま」
「おかえり」
母さん。
そして。
「……おかえり」
莉奈。
その声が。
いつもより少し小さい。
「ただいま」
俺は鞄を置く。
「今日」
莉奈が言う。
「文化祭準備、どうだった?」
「結構進んだ」
「そっか」
「うん」
「灯里さんと?」
「うん」
莉奈が。
少しだけ目を伏せた。
「……そっか」
「どうした?」
「別に」
また。
『別に』
俺は。
その言葉を聞いて。
いつもなら追及しない。
でも今日は。
少しだけ気になった。
「莉奈」
「ん?」
「何かある?」
「……」
莉奈が黙る。
「ないならいいけど」
「……ねえ」
「うん」
「兄貴」
「何?」
「好きな人できた?」
「…………」
驚いた。
どうして分かった。
顔か。
やっぱり。
俺はそんなに分かりやすいのか。
「なんで?」
「分かるよ」
「何が?」
「兄貴、学校から帰ってくるとき」
一瞬。
「顔が違う」
「……」
また。
その言葉だった。
「……うん」
俺は。
正直に答えた。
「いる」
莉奈の目が。
一瞬だけ揺れた。
「……そっか」
「白石」
「……」
「灯里」
「うん」
莉奈は。
それ以上何も言わなかった。
ただ。
「ご飯、できてるから」
そう言って。
リビングへ向かった。
◇
夜いつもなら。
莉奈が何か喋ってる。
今日は。
少ない。
「莉奈」
「何?」
「元気ない?」
「そんなことない」
「本当に?」
「うん」
母さんがこちらを見る。
何も言わない。
俺は。
それ以上聞かなかった。
でも。
心の中では。
引っかかっていた。
俺は。
灯里のことが好きだ。
その気持ちは。
もう隠したくない。
でも。
それと同時に。
莉奈のことを大切にする気持ちも。
変わらない。
恋愛と。
家族。
それは。
別のものなのだ。
だから。
どちらかを選ぶ必要はない。
そんな単純なことを。
俺はもう少し早く理解していればよかった。
莉奈が自分の部屋へ戻ろうとする。
「莉奈」
「ん?」
「灯里のこと」
「うん」
「俺、好きなんだと思う」
莉奈が止まる。
「……そっか」
「でも」
俺は続けた。
「お前は大切な妹だから」
「……」
「それは変わらない」
莉奈は。
しばらく黙って。
「……当たり前でしょ」
「うん」
「兄貴なんだから」
「……そうだな」
莉奈が笑った。
「じゃあ」
「ん?」
「好きな人、大切にしなよ」
「ああ」
「家族も」
「もちろん」
「……なら、いい」
莉奈が部屋へ戻る。
俺は。
その背中を見送った。
少しだけ。
安心した。
でも。
まだ。
何かを言い残したような。
そんな感覚があった。
◇
夜。
自分の部屋。
ベッドに横になる。
今日一日を思い出す。
灯里。
莉奈。
二人の顔が。
頭の中に浮かぶ。
そして。
俺は思った。
人を大切にする気持ちは。
一つだけではない。
家族に向ける愛情。
友達に向ける友情。
好きな人に向ける恋。
形は違っても。
根っこのところでは。
「この人が大切だ」と思う感情なのかもしれない。
俺は。
その全部を。
これから大切にしていきたい。
だから。
兄としても。
一人の男としても。
ちゃんと成長しなければならない。
そう思って。
目を閉じた。
そのとき。
廊下から。
小さな音がした。
コンコン。
「兄貴」
「ん?」
莉奈だった。
「……おやすみ」
「おやすみ」
それだけ。
足音が遠ざかる。
俺は。
少しだけ笑った。
たぶん。
大丈夫だ。
家族だから。
これからも変わらない。
そう思った。
――でも。
莉奈が部屋に戻ったあと。
彼女が一人で呟いた言葉を。
俺は知らない。
「……兄貴が、遠くなるみたい」
その言葉は。
まだ。
誰にも届かなかった。




