22.灯里の悩み
人間には、得意なことと苦手なことがある。
俺の場合。
人に頼まれることは、得意だった。
頼まれたら。
「いいよ」
と答える。
困っている人がいれば。
「手伝う」
と言う。
そんな自分を、昔は優しい人間だと思っていた。
たぶん。
完全な間違いではない。
でも最近。
それだけでもないような気がしている。
誰かの役に立つことで。
自分が必要な人間だと思える。
それは。
優しさと一緒に存在する、少しだけ厄介な感情だった。
「神谷くん」
そんなことを考えていると。
教室の前から灯里の声がした。
「ん?」
「ちょっといい?」
「ああ」
灯里は俺の席までやってくる。
今日はいつもより静かだった。
「どうした?」
「放課後、時間ある?」
「あるけど」
「文化祭のことで、ちょっとお願いがあるの」
「もちろん」
反射的に答えてから。
俺は一瞬だけ口を閉じた。
――もちろん。
まただ。
この言葉があまりにも自然に出てきた。
灯里が少し笑う。
「まだ何をお願いするか言ってないよ」
「……あ」
「ふふ」
「癖なんだ」
「知ってる」
「最近、それ言われるな」
「分かりやすいから」
灯里は笑った。
その笑顔が。
いつもより少しだけ疲れて見えた。
「じゃあ、放課後」
「うん」
なんとなく。
嫌な予感がした。
◇
放課後。
教室には、俺と灯里、それから数人の文化祭委員が残っていた。
机を並べる。
資料を広げる。
模造紙。
画用紙。
ペン。
テープ。
文化祭準備というのは。
華やかな本番より、その前のほうがずっと地味だ。
誰が何をするのか。
何が足りないのか。
いつまでに何を終わらせるのか。
そういう細かなことを、一つずつ決めていく。
「これ、どうしよう?」
「二年生の教室から借りられるか聞いてみる」
「じゃあ私、先生に確認してくる」
「俺はこっちやるよ」
気づけば。
俺もかなりの仕事を引き受けていた。
「神谷くん、それお願いしていい?」
「いいよ」
「これも?」
「うん」
「こっちも――」
「分かった」
気づけば。
机の上には、俺の仕事がどんどん増えていた。
別に嫌ではない。
むしろ。
頼られると嬉しい。
そんな自分に気づいて。
少しだけ苦笑した。
莉奈のときと。
同じだ。
でも。
今度は。
最後まで「俺がやる」で終わらせない。
必要なら。
誰かに頼る。
そのことを。
少しずつ学んでいる。
「灯里」
「ん?」
「これ、一人で全部やるつもりだった?」
「……うん」
「無理だろ」
「でも、委員だから」
「委員でも、一人で全部やる必要ない」
灯里が黙る。
「みんなにお願いしてる?」
「……あんまり」
「なんで?」
「忙しそうだから」
「でも、今」
俺は机の上を指差した。
「俺たち、ちゃんと手伝ってる」
「……」
「だったら、頼っていいんじゃない?」
灯里は少しだけ笑った。
「神谷くんに言われると不思議」
「何が?」
「前は、神谷くんのほうが全部自分で抱え込んでたのに」
「……確かに」
二人で笑った。
そのとき。
クラスメイトの女子が灯里に声をかけた。
「白石さん、これどうする?」
「あ」
灯里が立ち上がる。
「今行く!」
そして。
一人で対応しようとする。
「待って」
俺が呼び止めた。
「私がやるから」
「いや」
灯里の目を見る。
「一緒にやろう」
灯里は少し黙る。
「……うん」
その一言が。
灯里にとって妙に嬉しかった。
◇
作業は思った以上に進んだ。
気づけば。
夕方になっていた。
「今日、かなり終わったね」
灯里が机の上を見ながら言う。
「みんなでやったからな」
「……うん」
灯里が笑う。
「ありがとう」
「俺はそんなに――」
「ううん」
灯里が首を振る。
「今日は、本当に助かった」
その言葉に。
俺は少し照れた。
誰かにありがとうと言われる。
やっぱり。
嬉しい。
そして。
以前なら。
そこで終わっていた。
「役に立てた」
それだけで満足していた。
でも今は。
もう一つ。
相手の顔を見るようになった。
灯里は。
本当に嬉しいのか。
それとも。
俺に気を遣っているだけなのか。
今日は。
たぶん本当に嬉しい。
そのことが分かるだけで。
不思議と。
「役に立った」という喜びより大きなものを感じた。
「灯里」
「何?」
「今日はもう帰ろう」
「うん」
二人で教室を出る。
廊下には夕方の光が差し込んでいる。
人はほとんどいない。
静かな校舎。
足音だけが響く。
「神谷くん」
「ん?」
「一つ聞いていい?」
「もちろん」
「神谷くんって」
一拍。
「誰かにお願いされると、絶対断らないよね」
「……そうかな」
「うん」
「でも」
俺は少し笑った。
「最近は、そうでもない」
「どうして?」
「妹に怒られたから」
「ふふ」
灯里が笑う。
「妹ちゃん、すごいね」
「俺もそう思う」
「どういうふうに怒られたの?」
俺は少し考えた。
「俺が助けすぎるって」
「……」
「本人ができることまで、俺がやろうとしてたんだって」
灯里が静かに頷く。
「それで」
「うん」
「神谷くん、変わった?」
「少しは」
灯里は窓の外を見る。
「……羨ましい」
「え?」
「そういうふうに言ってくれる人がいるの」
「莉奈?」
「うん」
「でも」
灯里が続ける。
「私は、そういうことを言ってくれる人がいないから」
その声は。
いつもよりずっと小さかった。
俺は足を止めた。
「灯里」
「……何?」
「どういう意味?」
「……」
灯里はすぐに答えなかった。
俺も急かさなかった。
少し待つ。
「私」
灯里がようやく口を開いた。
「人に頼るの、苦手なんだ」
「うん」
「お願いするのも」
「うん」
「助けてって言うのも」
「……うん」
「だって」
灯里が笑った。
でも。
その笑顔は。
少しだけ寂しかった。
「迷惑かもしれないから」
その言葉を聞いた瞬間。
俺には。
その理由が少し分かった気がした。
「だから、自分でやる」
「うん」
「自分でやれば」
一度、言葉を止める。
「誰にも迷惑かけないから」
「……」
静かな廊下。
窓から夕日が差している。
俺は。
すぐに「俺が助ける」と言わなかった。
たぶん。
それが正しいと思ったからだ。
灯里が話す。
俺は聞く。
それだけで。
今はいい。
「でも」
灯里が続けた。
「一人で全部やるのも」
少しだけ俯く。
「疲れるね」
「……うん」
「でも」
灯里がこちらを見る。
「誰かにお願いするのって、もっと怖い」
「どうして?」
「その人が嫌そうな顔したら」
少し笑って。
「傷つくから」
俺の胸に。
その言葉が静かに入った。
断られることは。
頼む側にとって。
思っている以上に怖い。
お願いするということは。
自分の弱さを少しだけ見せることだ。
だから。
断られたとき。
ただお願いを断られただけではなく。
「自分自身を拒絶された」と感じることがある。
俺には。
その感覚を完全には理解できない。
でも。
少しだけ。
想像することはできた。
「灯里」
「うん」
「じゃあ」
俺は考えてから言った。
「俺には、頼っていいよ」
「…………」
「断ってもらってもいいし」
「何を?」
「俺が頼ることを」
灯里が目を丸くした。
「俺も」
「うん」
「灯里を頼るから」
「……」
「だから、一方的じゃない」
灯里は。
しばらく何も言わなかった。
そして。
「……ずるいね」
「え?」
「そういう言い方」
「何で?」
「頼る理由を作ってくれるから」
「それなら良かった」
灯里が笑った。
今度の笑顔は。
ちゃんといつもの灯里だった。
いや。
いつもより。
ほんの少しだけ。
力が抜けている。
「じゃあ」
灯里が言う。
「一個だけ」
「何?」
「明日」
「うん」
「放課後、また一緒にやってほしい」
「もちろん」
俺は答える。
そして。
一瞬だけ考えた。
今の俺は。
「頼られて嬉しい」のではなく。
「灯里が頼ることを選んでくれた」ことが嬉しい。
その違いは。
きっと。
大きい。
◇
駅で別れる。
「じゃあ、また明日」
「うん」
「神谷くん」
「ん?」
「今日は」
一瞬だけ。
灯里が迷う。
「……ありがとう」
「こちらこそ」
「どうして神谷くんがありがとうなの?」
「頼ってくれたから」
灯里が目を丸くする。
そして。
少しだけ笑った。
「変な人」
「それ、最近よく言われる」
「じゃあ、また明日」
「ああ」
灯里が歩いていく。
俺はその背中を見送る。
そして。
胸の中で考える。
莉奈にも。
灯里にも。
俺は同じことを学んでいる。
人を大切にするということは。
何でもしてあげることではない。
その人が自分で決められるように。
そばにいること。
手を差し出すだけじゃなく。
差し出した手を。
相手が握るかどうかを待つこと。
それが。
思っていた以上に難しい。
でも。
そのほうが。
たぶん。
相手のことをちゃんと大切にできる。
◇
家に帰る。
「ただいま」
「おかえり」
母さん。
その向こうから。
「兄貴」
「ん?」
「プリン」
「……」
「買ってきた?」
「今日は自分で買え」
「なんで?」
「たまには自分で買え」
「……」
莉奈が少し考える。
「じゃあ」
「うん」
「一緒にコンビニ行こう」
「…………」
今度は。
俺が黙った。
「それならいい?」
莉奈が聞く。
俺は笑った。
「もちろん」
靴を履く。
二人で家を出る。
外は少し冷える。
並んで歩く。
その途中。
莉奈が何気なく言った。
「兄貴」
「ん?」
「今日、学校でね」
「うん」
「友達に、兄貴の話した」
「また?」
「うん」
「何て?」
「秘密」
「おい」
莉奈が笑う。
「でも」
「うん」
「またいい兄貴だって言った」
その言葉を聞いて。
俺は少しだけ空を見た。
暗くなり始めた空。
星はまだ見えない。
でも。
そのうち見えるのだろう。
何かが見えないからといって。
そこにないとは限らない。
家族だって。
友情だって。
恋愛だって。
形になっていないだけで。
少しずつ。
そこにあるのかもしれない。
「兄貴」
「何?」
「何笑ってるの?」
「別に」
「嘘」
「……お前が妹でよかったなって」
「急に言うな!」
莉奈が顔を赤くする。
「……そういうの」
「うん」
「反則だから」
「何で?」
「分かんない!」
莉奈が早足になる。
俺も追いかける。
「待てよ!」
「兄貴が変なこと言うから!」
「褒めただけだろ!」
夜道に。
二人の声が響く。
その声を聞きながら。
俺は思った。
妹というものは。
やっぱり。
思っていたより面倒だ。
でも。
その面倒くささの中に。
誰かと一緒に生きているという実感がある。
そして。
そんな日々を。
俺はもう。
なくしたくないと思っていた。




