20.妹にも事情がある
人は、相手のことを分かっているつもりになった瞬間に、その人を見なくなる。
そんな気がする。
家族だから。
友達だから。
長く一緒にいるから。
そういう関係には、安心がある。
でも、その安心は時々、相手を「知っている」という思い込みに変わる。
俺は最近、そのことを少しずつ覚え始めていた。
だから。
その日の朝も。
莉奈を起こしたあと、俺は余計なことを言わなかった。
「おはよう」
「おはよ、兄貴」
「眠そうだな」
「眠い」
「そりゃそうだ」
「兄貴は?」
「眠い」
「じゃあ一緒じゃん」
「そうだな」
それだけ。
以前の俺なら。
「ちゃんと起きろ」とか。
「遅刻するぞ」とか。
「朝ご飯食べろ」とか。
何かと世話を焼こうとしていた。
今は。
必要なら手を出す。
必要でなければ見守る。
少しだけ。
それができるようになってきた。
莉奈が髪をまとめる。
鞄を持つ。
俺はそれを見ながら、朝食を食べる。
それだけ。
なのに。
以前より、莉奈が近くにいるような気がした。
不思議なものだ。
何かをしてあげることで、相手との距離が縮まるとは限らない。
時には。
何もしないで隣にいるほうが。
相手を一人の人間として尊重できる。
◇
いつものように駅まで一緒に歩いて改札で別れた。
「じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「……兄貴も」
「ああ」
俺はしばらく、莉奈を見送っていた。
それから。
駅のホームへ向かった。
◇
莉奈は駅から学校へ向かっていた。
イヤホンをつけて。
スマートフォンを手に持って。
いつもの道を歩く。
学校は嫌いじゃない。
友達もいる。
授業だって、それなりに楽しい。
笑うこともある。
くだらないことで盛り上がることもある。
だから。
「学校が嫌だ」と思ったことは、ほとんどなかった。
ただ。
家とは違う。
自分の中の何かが切り替わる。
家では気を抜ける。
だから。
兄の前では、少しくらい態度が悪くてもいい。
少しくらい、わがままでもいい。
少しくらい、子供っぽくてもいい。
そんなふうに思っていた。
でも。
最初からそうだったわけではない。
父親から。
「今度、一緒に暮らす人がいるから」
そう言われたとき。
莉奈は、うまく喜べなかった。
再婚そのものが嫌だったわけじゃない。
父親には幸せになってほしい。
それくらいは思っていた。
でも。
「家族が増える」という言葉が。
自分にとっては。
「自分の居場所が変わる」という意味にも聞こえた。
今まで住んでいた家。
今まで使っていた部屋。
今までの生活。
父親と自分だけの時間。
それらが。
少しずつ変わっていく。
そして。
知らない女の人が。
母親になる。
さらに。
その息子が。
兄になる。
兄。
その響きは。
莉奈にとって、ほとんど実感のない言葉だった。
漫画の中にはいる。
ゲームにもいる。
友達の家にもいる。
でも。
自分の生活にはいなかった。
だから。
初めて遼太を見たとき。
緊張した。
怖いわけではない。
ただ。
どう接すればいいのか分からなかった。
「お兄ちゃん」と呼ぶべきなのか。
「お兄さん」と呼ぶべきなのか。
そもそも。
いきなり兄と呼ぶこと自体が正しいのか。
そんなことを考えているうちに。
「これ、持って」
と口にしていた。
自分でも驚いた。
なぜ。
そんな言葉が出たのか。
今なら、少しだけ分かる。
頼めば。
相手が何をする人なのか分かる。
嫌な人なら断る。
面倒な人なら怒る。
怖い人なら怒鳴る。
優しい人なら。
――たぶん、やってくれる。
遼太は。
やってくれた。
荷物を持って。
プリンを買って。
朝も起こして。
何かあるとすぐ心配して。
それが。
最初は少しだけ、鬱陶しかった。
でも。
同時に。
安心した。
頼んでもいい人。
そう思えることが。
思っていた以上に大きかった。
だから莉奈は。
何度も遼太に頼んだ。
「兄貴、これ」
「兄貴、お願い」
「兄貴、一緒に帰ろう」
それは。
パシリにするためだけじゃなかった。
話しかける理由が欲しかった。
家族になったばかりなのに。
普通に話しかけるのは。
なぜか少し恥ずかしかった。
だから。
「頼みごと」という形にした。
お願いなら。
拒絶されても。
ただのお願いが断られただけで済む。
でも。
「一緒にいたい」と言って。
断られたら。
自分そのものを拒否されたような気がする。
だから。
莉奈は。
「兄貴、プリン」
と言った。
本当は。
「兄貴と少し話したい」
だった。
そんな自分を。
莉奈自身も。
少しだけ可笑しいと思っていた。
◇
昼休み。
「莉奈」
友達の美咲が弁当を片手に近づいてくる。
「何?」
「昨日、お兄ちゃんと帰った?」
「……なんで?」
「だって最近、放課後になるとすぐ帰るじゃん」
「別に」
「また『兄貴』?」
「うん」
「それ好きだよね」
「何が?」
「お兄ちゃんの話」
「してないし」
「してるよ」
美咲が笑う。
「この前なんて」
指を一本立てる。
「『兄貴がさ』」
二本目。
「『兄貴って本当に鈍い』」
三本目。
「『兄貴がプリン買ってきてくれた』」
「…………」
莉奈は箸を止めた。
「……そんなに?」
「うん」
「うそ」
「本当」
別の友達も笑う。
「莉奈、お兄ちゃんできてからちょっと変わったよ」
「何が?」
「前より楽しそう」
「……」
莉奈は答えなかった。
でも。
少しだけ。
嬉しかった。
自分でも認めたくなかった。
でも。
確かに。
家に帰るのが楽しみになった。
朝、起きると。
今日は兄貴に何を頼もう。
学校へ行くと。
帰ったら何を話そう。
夜になると。
明日は何をしよう。
そんなことを。
以前は考えなかった。
「ねえ」
美咲が顔を近づける。
「お兄ちゃんのこと好きでしょ?」
「……」
莉奈は思い切り眉を寄せた。
「家族として」
「あ、そういう意味ね」
「当たり前でしょ」
「うんうん」
美咲が笑う。
「分かってるって」
莉奈は弁当のおかずを一つ取った。
「……でも」
「何?」
「いい兄貴だと思う」
「ほら」
「何が?」
「好きじゃん」
「家族として!」
友達が笑う。
莉奈も。
少しだけ笑った。
◇
放課後。
莉奈は駅へ向かう。
スマートフォンを開く。
遼太とのメッセージ。
『今日、何時?』
いつもの質問。
莉奈は少し考える。
『今日も六時』
送る。
すぐに。
『分かった』
それだけ。
莉奈はスマートフォンを閉じる。
それなのに。
少しだけ安心した。
六時。
兄貴が帰ってくる。
それだけ。
待っている人がいる。
そう思えるだけで。
歩く速度が少し軽くなる。
そのとき。
友達から声がした。
「莉奈!」
「ん?」
「一緒に帰らない?」
「ごめん」
莉奈は少しだけ笑った。
「今日は兄貴と帰るから」
「えー」
「約束した」
「お兄ちゃん大好きじゃん」
「違うって」
そう言いながら。
莉奈は少しだけ嬉しそうだった。
◇
夜。
遼太は自分の部屋にいた。
机の上に参考書を広げている。
けれど。
集中できない。
莉奈が学校でどんな一日を過ごしているのか。
最近、それが少し気になる。
でも。
聞きすぎるのもよくない。
学校は。
莉奈自身の場所だ。
家族だからといって。
そこまで踏み込んでいいわけじゃない。
俺には俺の生活がある。
莉奈には莉奈の生活がある。
そして。
その二つが帰宅したところで重なる。
そのくらいが。
今はちょうどいい。
そう思っていた。
コンコン。
ドアが鳴る。
「兄貴」
「ん?」
「入っていい?」
「いいよ」
ドアが開く。
莉奈が入ってくる。
「どうした?」
「……別に」
「じゃあ何で来た?」
莉奈は黙る。
少しだけ視線を泳がせて。
「……今日」
「うん」
「学校で」
「うん」
「兄貴の話した」
「え?」
「友達に」
「俺の?」
「うん」
遼太は少し笑った。
「何て?」
「……秘密」
「何でだよ」
「恥ずかしいから」
「悪口?」
「違う」
「じゃあ何?」
「……いい兄貴って言った」
遼太が黙る。
莉奈も黙る。
「そっか」
「うん」
「……ありがとう」
「何で兄貴が礼言うの」
「嬉しかったから」
「……ふーん」
莉奈は少しだけ笑った。
「じゃあ」
「うん?」
「明日」
「うん」
「……朝」
「分かってる」
「何が?」
「起こせばいいんだろ」
「……うん」
莉奈はドアへ向かった。
そこで。
「兄貴」
「ん?」
振り返る。
「私」
「うん」
「ここに来てよかったと思ってる」
それだけ言って。
莉奈は部屋を出た。
ドアが閉まる。
俺は。
しばらく動けなかった。
胸の奥が。
静かに熱くなっていた。
ここに来てよかった。
その言葉は。
俺にとって。
想像以上に大きかった。
妹ができてよかった。
そんな意味だけじゃない。
この家に来て。
俺と出会って。
それでも。
「よかった」
と言ってくれた。
それは。
俺自身を。
少しだけ肯定されたような気がした。
でも。
同時に。
俺は思った。
莉奈は。
「ここにいていいのか」と。
きっとずっと気にしている。
だからこそ。
俺は。
この家が。
「帰ってきてもいい場所」だと思えるようにしたい。
妹だからではなく。
莉奈だから。
そのために。
俺にできることをしたい。
ただし。
今度は。
莉奈が望んだことだけ。
俺はベッドに横になる。
そして。
少しだけ笑った。
「……兄貴か」
その肩書きは。
最初は嬉しかった。
今は。
少しだけ重い。
でも。
その重さが。
嫌じゃなかった。
誰か一人の人生に。
「兄」という名前で登場する。
それは。
自分が思っていたより。
ずっと大きなことなのかもしれない。
◇
翌朝。
目覚ましが鳴る少し前。
コンコン。
「兄貴」
「起きてる」
「……そっか」
「どうした?」
少し沈黙。
「……別に」
「またそれ?」
「うん」
ドア越しに。
小さな笑い声がした。
「じゃあ、朝ご飯」
「分かった」
足音が離れていく。
俺は目を閉じる。
そして思う。
俺は。
まだ完璧な兄じゃない。
たぶん。
これからも何度も間違える。
助けすぎることもある。
余計なことを言うこともある。
莉奈を怒らせることだってある。
それでも。
そのたびに。
少しずつ。
兄妹になっていけばいい。
そのための時間は。
まだ。
始まったばかりなのだから。




