19.兄とは
翌朝。
俺は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
いつものように。
……いや。
いつもの「ように」ではない。
目が覚めた瞬間、反射的に考えた。
――莉奈を起こさなきゃ。
そう思ってから。
俺は天井を見つめた。
起こすべきだろうか。
昨日の夜。
俺たちは、少しだけ仲直りした。
「自分で起きる」
そう言っていたから。
俺が起こさなくてもいい。
むしろ。
起こさないほうがいい。
そう思った。
でも。
体は勝手に起き上がっていた。
時刻は六時五十分。
俺は廊下へ出る。
莉奈の部屋の前まで行く。
ノックしようとして。
手を止めた。
今までなら。
迷わなかっただろう。
でも今は。
その一歩が、妙に重い。
結局。
何もしないことにした。
俺は階段を下りる。
リビングに母さんがいる。
「おはよう」
「おはよう、遼太。莉奈は?」
「まだじゃない?」
「そう」
それだけ答える。
朝食を並べる。
味噌汁。
ご飯。
焼いた魚。
いつもと同じ。
なのに。
何か一つ足りない。
何が足りないのか。
すぐには分からなかった。
母さんが言う。
「遼太、眠そうね」
「そうかな」
「うん。昨日遅くまで何か考えてた?」
「まあ」
「莉奈ちゃんのこと?」
「……まあ」
母さんが少し笑った。
「仲良くなってきたわね」
「そうかな」
「昨日も二人で帰ってきたとき、前より自然だったもの」
俺は箸を持ちながら。
ふと。
その言葉の意味を考えた。
仲良くなった。
そうなのだろう。
でも。
仲良くなるというのは。
いつも一緒に笑っていることだけではない。
喧嘩して。
傷ついて。
相手の言葉が気になって。
それでも。
次の日になれば、また同じ家にいる。
その積み重ねのほうが。
もしかすると。
人との距離を決めていくのかもしれない。
「……まだ寝てるのかな」
「起こしてきたら?」
「いや」
俺は首を振った。
「今日は自分で起きるって」
母さんは少しだけ驚いた顔をした。
「そう」
その直後。
階段から足音が聞こえた。
タタタ、と。
「おはよ」
莉奈だった。
髪は少し乱れている。
「おはよう」
俺も答える。
「兄貴」
「何?」
「今日、起こさなかったね」
「自分で起きるって言ってただろ」
「……そっか」
「遅刻しそうだけどな」
「大丈夫」
「急げよ」
「うん」
それだけ。
何でもない会話。
でも。
昨日までなら。
ここで、
「ちゃんと起こしてよ!」
くらいのことは言われていた。
言われなかった。
そのことが。
少しだけ寂しかった。
自分で起きられたのだから。
いいことだ。
俺がそう教えたわけでもない。
自分で起きた。
それでいい。
それなのに。
胸の奥に。
小さな空洞ができたような気がした。
人というのは。
勝手なものだ。
相手が自立すると喜ぶくせに。
同時に。
自分を必要としなくなることを怖がる。
俺も。
例外ではないらしい。
「兄貴」
「ん?」
「学校、行ってくる」
「ああ」
「……行ってらっしゃいって言って」
「なんで?」
「なんとなく」
俺は少しだけ笑った。
「行ってらっしゃい」
「……うん」
莉奈が出ていく。
玄関のドアが閉まる。
家が静かになる。
俺はその音を聞きながら。
妙な気持ちになった。
家が少し広く感じる。
俺は自分でも呆れて笑った。
「……面倒くさいな、俺」
そのとき。
母さんが笑う。
「誰に似たのかしらね」
「父さんじゃない?」
「そうかもね」
母さんが笑った。
俺も笑った。
◇
学校。
教室。
俺は窓の外を見ていた。
授業が始まる。
終わる。
昼休みになる。
それでも。
どこか落ち着かなかった。
莉奈は今。
別の高校にいる。
俺の知らない教室で。
俺の知らない友達と。
俺の知らない時間を過ごしている。
当たり前だ。
俺と莉奈は。
別々の高校に通っている。
だから。
昼休みに顔を見ることもない。
授業の合間に話すこともない。
廊下ですれ違うこともない。
それでも。
俺の頭の片隅には。
ずっと莉奈がいた。
「神谷くん」
灯里が声をかけてくる。
「ん?」
「朝からずっと難しい顔してる」
「また?」
「うん」
俺は苦笑した。
「莉奈とちょっと喧嘩して」
「分かる」
「どうして?」
「神谷くん、分かりやすく落ち込んでたから」
「……そんなに?」
「うん」
灯里は笑った。
「で、仲直りした?」
「たぶん」
「たぶん?」
「昨日、一緒に帰ってきたし」
「じゃあ仲直りしたんじゃない?」
「でも」
「うん」
「朝、起こさなかったんだ」
「……?」
灯里が少し考える。
「それ、仲直りと関係ある?」
「ある」
「どうして?」
「昨日まで起こしてたから」
「……」
灯里が数秒黙って。
「神谷くん」
「はい」
「それ、妹ちゃんに頼られなくなったのが寂しいだけじゃない?」
「…………」
図星だった。
「俺」
苦笑する。
「たぶん、そう」
「そっか」
「自分で起きてほしいと思ってるのに」
「うん」
「自分で起きられると、ちょっと寂しい」
「人間って面倒だね」
「本当に」
灯里は笑った。
「でも」
「うん」
「それって、悪いことじゃないと思う」
「そう?」
「自分が必要とされることって、嬉しいから」
その言葉に。
俺は少し黙った。
「ただ」
灯里が続ける。
「必要とされることと、必要にさせることは違うよね」
「……」
「妹ちゃんが自分でできるようになったことを、喜んであげればいいんじゃない?」
俺は。
ゆっくり息を吐いた。
その通りだ。
莉奈にとって。
俺にできることが減っていくことは。
関係が悪くなることじゃない。
むしろ。
自分の人生を自分で歩けるようになることだ。
俺は。
それを嬉しいと思わなければならない。
それなのに。
俺は。
自分が寂しいという理由だけで。
それを残念がっている。
「……兄失格かもしれない」
「違うよ」
「え?」
「むしろ」
灯里は少し笑った。
「それだけ妹ちゃんのこと、大事なんじゃない?」
その言葉に。
胸の奥が少し温かくなった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
その笑顔が。
今日はいつもより少し近くに感じた。
◇
午後。
授業が終わる。
放課後。
今日は部活がない。
俺は駅へ向かう。
駅前のベンチ。
俺は足を止めた。
ここは。
最初に天使ミエルと会った場所だった。
人は。
場所に記憶を貼り付ける生き物らしい。
同じベンチでも。
前とは違って見える。
俺はそこに座った。
別に。
誰かを待っているわけではない。
……たぶん。
五時。
五時十分。
五時二十分。
莉奈は来ない。
約束していないから当然だ。
俺は立ち上がろうとする。
そのとき。
「兄貴」
聞き慣れた声。
顔を上げる。
莉奈が立っていた。
「……来たのか」
「うん」
「どうした?」
「別に」
「またそれ?」
「……兄貴がいるなって」
その言葉に。
俺の胸が。
少しだけ跳ねた。
「いるよ」
「うん」
莉奈はベンチの隣に座った。
少しだけ距離を空けて。
俺も何も言わない。
しばらく。
二人で駅前を眺める。
「兄貴」
「ん?」
「今日」
「うん」
「学校、どうだった?」
「普通」
「普通なんだ」
「普通だよ」
莉奈が笑った。
「ならいい」
俺も笑う。
「お前は?」
「……普通」
「ほんとか?」
「普通」
「絶対何かあるだろ」
「ない」
「あんなことがあったのに?」
「……それは」
莉奈が黙った。
「……ごめん」
「俺も」
それだけで。
ずいぶん軽くなった。
「私」
莉奈が続ける。
「兄貴に助けてもらうのは嫌じゃない」
「うん」
「でも」
「うん」
「兄貴が私のこと心配しすぎると」
一度、息を吐く。
「……私まで、自分を心配しなきゃいけない気がしてくる」
「え?」
「兄貴が『大丈夫?』って何回も聞くと」
莉奈は苦笑した。
「私まで『大丈夫じゃないのかな』って思う」
俺は。
その言葉を聞いて。
黙った。
それは。
考えたことがなかった。
俺は。
心配することが優しさだと思っていた。
でも。
心配され続けることが。
相手を不安にすることもある。
人間の感情は。
そんなに単純じゃない。
「……ごめん」
「うん」
「これから気をつける」
「うん」
「でも」
「何?」
「困ったら言えよ」
莉奈が少し笑う。
「それは言う」
「約束な」
「うん」
その笑顔に。
俺は安心した。
◇
二人で駅を出る。
「何か食べたい?」
「……ケーキ」
「珍しいな」
「なんとなく」
「じゃあ、帰りに食べていく?」
「うん」
近くの店に入る。
席に座る。
メニューを見る。
「兄貴」
「何?」
「これ」
「うん?」
「どっちがいいと思う?」
莉奈がメニューを見せる。
ケーキの種類がたくさん。
「これ」
「じゃあ、これにする」
「俺の意見でいいの?」
「兄貴だから」
俺は笑った。
「その言葉、今日は結構嬉しい」
「何で?」
「昨日までは、なんか怒ってるときにしか聞かなかったから」
「……そうだった?」
「そうだよ」
「じゃあ」
莉奈が少し考えて。
「これからも言う」
「本当?」
「うん」
そのとき。
俺はふと思った。
兄というのは。
偉くなることじゃないのかもしれない。
妹より何でもできることでも。
妹より正しいことでもない。
ただ。
困ったときに思い出してもらえる存在であること。
そして。
必要がないときには。
少し離れていられる存在であること。
そのくらいが。
ちょうどいいのかもしれない。
「兄貴」
「ん?」
「何笑ってるの?」
「別に」
「嘘」
「お前がいるの、悪くないなって」
「……急に言わないでよ」
莉奈が顔を逸らす。
耳が少し赤い。
「照れてる?」
「照れてない」
「顔に出てる」
「兄貴もね」
「……」
俺たちは。
同時に笑った。
それから。
ケーキを食べた。
その味は。
自分には甘すぎる味だった。
でも。
今日の俺には。
少しだけ特別だった。
◇
家に着く。
「ただいま」
「おかえり」
母さん。
莉奈も続ける。
「ただいま」
そのあと。
俺たちは顔を見合わせた。
昨日までの気まずさが。
少しだけなくなっていた。
「兄貴」
「何?」
「明日」
「うん」
「起こして」
俺は。
一瞬。
言葉が出なかった。
「……起こすの?」
「うん」
「自分で起きられるだろ」
「起きられるけど」
「けど?」
「兄貴に起こしてほしい」
「…………」
胸の奥が。
じわっと熱くなる。
「分かった」
「じゃあ、お願い」
「任せろ」
莉奈が笑う。
莉奈が部屋へ戻っていく。
その背中を見送りながら。
俺は思った。
きっと。
これでいい。
自分で起きられるけど。
起こしてもらうことを選ぶ。
それは。
依存ではなく。
甘えるということなのかもしれない。
頼る。
でも。
自分でもできる。
その間にある。
ちょうどいい距離。
それが。
家族なのかもしれない。
俺は自分の部屋へ戻る。
ベッドへ横になる。
目を閉じる。
すると。
ふと。
「妹が欲しい」と願った日のことを思い出した。
あの日の俺は。
妹さえいれば。
きっと人生は完璧になると思っていた。
でも。
今なら少しだけ分かる。
人は。
誰かを手に入れたことで幸せになるんじゃない。
その人と。
どう過ごしたか。
何を話したか。
何度喧嘩したか。
何度仲直りしたか。
そういう時間の積み重ねで。
初めて。
「この人がいてよかった」と思えるのだ。
だから。
俺は明日も。
莉奈を起こす。
たぶん。
プリンも買う。
きっと。
またパシリにされる。
そして。
文句を言う。
「兄を敬え」と。
でも。
その全部が。
少しずつ。
俺たちの関係になっていく。
そのことを考えながら。
俺は目を閉じた。
その夜。
久しぶりに。
家が静かだとは思わなかった。
静かなのに。
どこか。
誰かの気配がする。
同じ家の中に。
家族がいる。
その事実だけで。
世界は少しだけ。
温かかった。




