18.俺は兄だから
次の朝。
俺は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
そして目が覚めた瞬間に、莉奈を起こさなければ、と思ったが。
思ったけれど、布団の中で止めた。
昨日、莉奈に言われた。
――兄貴だからって、何でも助けようとしないでよ。
その言葉が。
一晩経っても、頭の中から消えなかった。
俺はベッドの上で天井を見つめる。
白い天井。
いつもと同じ。
なのに。
昨日までとは、見え方が違う。
俺はずっと。
「兄だから」という言葉を大切にしてきた。
それは、俺にとって初めて手に入れた肩書きだったからだ。
一人っ子だった俺は。
誰かの兄になったことがない。
誰かより先に生まれて。
誰かの手を引いて。
誰かに頼られる。
そういう役割に。
ずっと憧れていた。
だから。
妹ができたと知ったとき。
俺は嬉しかった。
嬉しすぎて。
「兄」という役割に酔っていたのかもしれない。
兄なんだから。
兄らしく。
兄として。
何度そう思っただろう。
でも。
人を助けるための言葉だったはずの「兄だから」が。
いつの間にか。
自分の存在を確認するための言葉になっていたとしたら。
それは。
少し怖い。
俺は布団から出た。
廊下に出る。
莉奈の部屋の前で、足が止まる。
起こすべきだろうか。
昨日までは。
ノックしていた。
でも。
今日は。
やめた。
自分で起きるかもしれない。
遅刻するかもしれない。
それでも。
莉奈が自分で決める機会を。
俺が奪わないほうがいい。
そう考えた。
少しして。
ドアが開いた。
「……おはよ」
「おう」
莉奈だった。
寝癖が少しついている。
「なんで起こさないの?」
「……起こしてほしかった?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあいいだろ」
「……まあ」
莉奈は少しだけ不思議そうな顔をした。
俺も。
少しだけ気まずかった。
昨日までなら。
ここで何か冗談を言っていた。
でも。
今日は。
言葉が慎重になっていた。
「朝ご飯、できてるぞ」
「うん」
「急がないと遅れるぞ」
「分かってる」
それだけ。
階段を下りる。
俺の後ろを莉奈がついてくる。
今までなら。
当たり前だったはずの距離が。
今日は少し遠く感じた。
◇
朝食。
三人で食卓を囲む。
「今日、帰りは?」
母さんが莉奈に聞く。
「普通」
「また普通なの?」
母さんが笑う。
莉奈も少し笑う。
昨日よりは。
空気が柔らかい。
でも。
俺たちは目を合わせなかった。
それが。
少しだけ寂しい。
俺は思う。
喧嘩をしたからといって。
家族でなくなるわけではない。
でも。
近かったものが。
ほんの少し遠く感じることはある。
その距離を埋めようとして。
焦って近づけば。
余計に離れてしまうこともある。
だから。
今は。
待つしかない。
「ごちそうさま」
莉奈が立ち上がる。
食器を流しへ持っていく。
俺も立つ。
手伝おうとした。
けれど。
昨日の言葉を思い出す。
手を止める。
「……どうしたの?」
莉奈が見る。
「いや」
俺は笑った。
「何でもない」
その言葉を口にしたとき。
少しだけ。
自分が昨日の莉奈に近づいたような気がした。
◇
学校。
一時間目。
いつもなら。
授業中でも。
なんとなく莉奈のことを考えることがあった。
今日は。
朝のことを考えていた。
自分で起きる。
自分で準備する。
自分で決める。
たぶん。
当たり前のことだ。
なのに。
俺は「兄」という理由だけで。
それを手伝おうとしていた。
人間は。
善意を振りかざすときほど。
自分が正しいと思いやすい。
相手のためだ。
心配だから。
大切だから。
そう言って。
相手の選択肢を奪ってしまうこともある。
たぶん。
昨日の俺は。
それをやっていた。
「神谷」
「はい!」
まただった。
教室に笑いが起きる。
「ちゃんと授業聞け」
「すみません……」
隣から灯里がこちらを見る。
「妹ちゃんと喧嘩した?」
「……うん」
今日はごまかさなかった。
「何があったの?」
「俺が、助けようとしすぎた」
「……神谷くんらしいね」
「褒めてないだろ」
「褒めてないよ」
灯里が笑う。
「でも」
「うん」
「前よりちょっと、分かってきたんじゃない?」
「何が?」
「相手のこと」
俺は黙った。
「妹ちゃんに言われたんでしょ?」
「うん」
「『兄だからって何でも助けないで』って」
「……よく分かるな」
「顔に書いてある」
「また顔!」
灯里が笑う。
その笑い方が。
いつもより少し優しかった。
「神谷くん」
「ん?」
「誰かを大切にするなら」
灯里がゆっくり言った。
「その人が自分で歩けるときは、ちゃんと歩かせてあげるのも大事だと思う」
「……」
「転びそうなら手を伸ばせばいい」
「うん」
「でも」
一拍。
「歩きたいって言ってる人の手を、ずっと握ってたら」
灯里は少しだけ笑った。
「その人、自分の足で歩けなくなっちゃうかもしれないよ」
その言葉が。
胸に深く入ってきた。
俺はずっと。
手を差し出すことが優しさだと思っていた。
でも。
手を差し出さないことも。
相手を信じるための優しさなのかもしれない。
それは。
俺にとって。
今まで考えたことのない優しさだった。
「……灯里」
「何?」
「俺、ちゃんと兄になれるかな」
言ってから。
少し恥ずかしくなる。
灯里は笑わなかった。
「もうなってるんじゃない?」
「え?」
「だって」
灯里が俺を見る。
「妹ちゃんが、本気で怒れるくらい近いんだから」
俺は。
その言葉を聞いて。
少しだけ息を吐いた。
喧嘩は。
関係が壊れた証拠だと思っていた。
でも。
本当は。
遠慮なく怒れるほど。
近くなった証拠なのかもしれない。
もちろん。
喧嘩は嫌だ。
言われたくないことも言われる。
自分も傷つく。
相手も傷つける。
それでも。
誰かと本気で関わるなら。
避けて通れないことなのだろう。
「ありがとう」
「うん」
灯里が笑う。
俺も笑った。
その瞬間。
ほんの少しだけ。
昨日までより灯里が近くなった気がした。
◇
放課後。
俺はまっすぐ駅へ向かった。
今日は。
莉奈から連絡がない。
約束もしていない。
だから。
駅で待つ理由はない。
分かっている。
それでも。
駅に着くと。
俺は足を止めた。
いつもの場所。
いつも莉奈と別れる場所。
いつも莉奈を待つ場所。
そこに。
当然のように立ってしまった。
自分でも笑う。
「……俺、馬鹿だな」
待つ必要なんてない。
それでも。
帰らなかった。
もし来たら。
話せるかもしれない。
来なかったら。
帰ればいい。
俺はスマートフォンを見る。
五時十分。
五時二十分。
五時三十分。
来ない。
五時四十分。
少し。
寂しくなった。
でも。
その寂しさを。
莉奈に埋めてもらおうとは思わなかった。
昨日までなら。
「何で来ないんだ」
と勝手に不安になっていたかもしれない。
今日は。
莉奈にも予定があるのだろうと思えた。
人間には。
自分だけでは分からない時間がある。
俺に見えない場所で。
莉奈は莉奈の人生を生きている。
それを。
少しずつ受け入れなければならない。
俺がそう思ったとき。
「兄貴」
「……!」
声がした。
振り返る。
莉奈が立っていた。
少し息を切らしている。
「どうした?」
「……」
莉奈が黙る。
その顔は。
怒っているようにも。
泣きそうにも見えた。
「今日」
「うん」
「兄貴、待ってないと思った」
「……」
「だから」
莉奈が視線を逸らす。
「待っているのが見えて、ちょっと急いだ」
胸の奥が。
熱くなった。
「俺は」
少し考えてから。
「待ってた」
「……うん」
それだけ。
でも。
昨日までとは。
何かが違う。
俺が莉奈を待っていた。
莉奈が俺のところへ来た。
どちらかが無理に引っ張ったわけではない。
ただ。
お互いに。
同じ場所へ来ただけだ。
「帰ろう」
「うん」
二人で歩き出す。
しばらく無言だった。
でも。
嫌な沈黙ではなかった。
「兄貴」
「ん?」
「昨日、ごめん」
「俺も」
「……私」
莉奈が少し迷う。
「兄貴に助けてもらうの、嫌なわけじゃない」
「うん」
「むしろ」
そこで。
声が小さくなる。
「……嬉しい」
俺は何も言わなかった。
「でも」
「うん」
「私ができることまで、兄貴がやっちゃうと」
莉奈は前を向いた。
「なんか、自分が弱い存在みたいになる」
「……」
その言葉は。
胸に刺さった。
俺は。
莉奈のためにやっているつもりだった。
でも。
やりすぎることで。
逆に「お前一人じゃできない」と言ってしまっていたのかもしれない。
「ごめん」
俺は言った。
「俺、お前を助けることばっかり考えてた」
「うん」
「でも」
俺は少しだけ笑う。
「頼られると嬉しかったから」
「……兄貴」
「俺自身のためでもあったんだと思う」
莉奈は黙った。
しばらく歩く。
そして。
「じゃあ」
「ん?」
「これからは」
莉奈が言う。
「私が頼んだときだけ、助けて」
「……分かった」
「あと」
「うん」
「頼んでないときは」
少しだけ笑って。
「見守って」
「了解」
「できる?」
「努力はする」
「そこはできるって言って」
「じゃあ、できる」
「よし」
莉奈が笑った。
俺も笑った。
その瞬間。
胸の奥に残っていたものが。
少しだけ溶けた。
◇
家に帰る。
「ただいま」
「おかえり」
母さん。
莉奈も。
「ただいま」
そして。
俺と莉奈は顔を見合わせた。
「兄貴」
「何?」
「……昨日より、ちょっとマシ」
「何その評価!」
「褒めてる」
「ならいい」
二人で笑う。
それを見ていた母さんが。
「仲直りしたのね」
「まあ」
莉奈が答える。
「完全じゃないけど」
「何で完全じゃないんだよ」
「兄貴がまだまだだから」
「厳しいな!」
いつもの会話。
いつもの空気。
でも。
昨日までとは。
少し違う。
俺は気づいていた。
莉奈が俺に頼ることを。
俺もまた。
莉奈に頼り始めている。
「お前がいるから、帰ってきたい」
そんな感情を。
俺は少しずつ認め始めていた。
家族は。
一方通行ではない。
助ける側と。
助けられる側に。
固定されるものでもない。
今日は俺が支える。
明日は莉奈が俺を笑わせる。
そんなふうに。
役割を交換しながら。
少しずつ。
同じ家の中にいる意味を作っていく。
◇
その夜。
俺は自分の部屋に戻った。
ベッドに横になる。
そして。
ふと。
昼間の灯里を思い出した。
「神谷くんって、本当に人を大切にしたいんだね」
そんなことを言われたわけでもないのに。
なぜか。
彼女の言葉が残っている。
妹を大切にしたい。
家族を大切にしたい。
そして。
灯里のことも。
もっと知りたいと思っている。
人を大切にする。
その意味を。
俺はまだ学んでいる途中だ。
それでも。
少しずつ。
誰かを「自分の理想」に合わせるのではなく。
その人自身を見ることが。
できるようになってきた気がする。
そのとき。
コンコン。
小さなノックが鳴った。
「兄貴」
「ん?」
莉奈の声。
「明日の朝」
「うん」
「起こして」
「……自分で起きろよ」
「……じゃあ自分で起きる」
俺は笑った。
「はいはい」
「……おやすみ」
足音が遠ざかる。
俺は一人で笑った。
やっぱり。
妹は。
ものすごく面倒くさい。
だけど。
その面倒くささを。
もう嫌だとは思わなかった。
むしろ。
その「面倒」がなくなったら。
少し寂しいのだろう。
そう思った自分に。
俺は苦笑した。
――俺は。
少しずつ。
兄になっているのかもしれない。




