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妹よっ!! 兄を敬えっ!! ~天使に妹をお願いしたら、理想と現実が違いすぎた~  作者: 和泉 きよ


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17/19

17.兄貴なんだから

 その感情に名前をつけないまま。


 俺は家へ帰った。


 名前なんて、つけなくてもいいと思った。


 灯里と一緒に帰る時間が楽しかった。


 明日も会えたらいいと思った。


 それだけだ。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 ……たぶん。


 「ただいま」


 「おかえり」


 母さんの声。


 続いて。


 「遅い」


 莉奈の声。


 「別に遅くないだろ」


 「時計見て」


 玄関の時計を見る。


 午後六時三十二分。


 「三十二分くらいで怒るなよ」


 「六時より三十二分遅い」


 「六時くらいって言っただろ」


 「『くらい』が広すぎる」


 「そんなに厳密に決めてない!」


 俺は靴を脱いだ。


 いつもの調子。


 でも。


 なんとなく違和感があった。


 「……どうした?」


 「何が?」


 「いや」


 莉奈は目を合わせない。


 鞄を持ったまま、リビングへ行く。


 「学校、どうだった?」


 「普通」


 「またそれ?」


 「兄貴が聞きすぎ」


 そう言って。


 莉奈はソファに座った。


 スマートフォンを操作している。


 画面を見ているふりをして。


 何度も同じ場所を指でなぞっている。


 俺には。


 何か考え事をしているように見えた。


 「莉奈」


 「何?」


 「何かあった?」


 「……何もない」


 即答。


 だけど。


 その答え方は。


 「何もない人」のものではなかった。


 人は。


 隠し事をするとき。


 「ない」と言う速度が妙に速くなることがある。


 本当は話したい。


 でも話すのが怖い。


 だから先に扉を閉める。


 「そう」


 俺は、それ以上聞かなかった。


 今までの俺なら。


 たぶん。


 もっと聞いていたと思う。


 何があった。


 誰かに何か言われた。


 困ってるなら言え。


 俺が何とかする。


 そんな言葉を。


 すぐ口にしていただろう。


 でも。


 少しずつ学び始めていた。


 誰かが「大丈夫」と言ったなら。


 本当は大丈夫ではなくても。


 まずは、その言葉を尊重すること。


 助けることと。


 無理に助けようとすることは。


 同じではない。


 「夕飯、もう少しでできるらしいから」


 「うん」


 莉奈はスマートフォンを見つめ続ける。


 俺は自分の部屋へ戻った。


 けれど。


 なんとなく。


 胸の中に小さな棘が残った。


 何かあった。


 そんな気がしてならなかった。


   ◇


 夕食。


 母さんが料理を並べる。


 三人で食卓を囲む。


「いただきます」


 いつもの挨拶。


 なのに。


 莉奈はほとんど喋らない。


 「莉奈」


 「ん?」


 「今日、学校で――」


 俺が言いかけたところで。


 「何も」


 「まだ聞いてないだろ!」


 母さんが笑う。


 「莉奈ちゃん、今日はお疲れなのかしらね」


 「そうかも」


 莉奈は味噌汁を飲む。


 それきり黙る。


 俺も何も言わなかった。


 食卓というのは。


 不思議だ。


 同じ場所に三人いるだけで。


 会話がなくても「一緒にいる」という感覚がある。


 逆に。


 会話があっても。


 心が離れていれば。


 どこか寒い。


 俺は。


 今日の食卓を。


 少しだけ寒いと思った。


 食事が終わる。


 莉奈が立つ。


 「ごちそうさま」


 「お粗末さま」


 母さんが答える。


 莉奈は食器を流し台へ持っていき洗い始める。


 俺も手伝う。


 「いいよ」


 「いいって」


 「……そう?」


 「うん」


 俺たちは並んで皿を洗った。


 しばらく。


 水の音だけが響く。


 「兄貴」


 「ん?」


 「今日さ」


 「うん」


 「……何でもない」


 「そう?」


 「うん」


 まただ。


 今度こそ。


 何かある。


 そう思った。


 でも。


 聞くのをやめた。


 人には。


 自分から話したいと思うまでの時間が必要なのだ。


 俺は。


 その時間を待てる兄になりたいと思った。


 ……そのつもりだった。


   ◇


 翌朝。


 「兄貴、起きて」


 ドアの向こうから莉奈の声。


 「起きてる」


 「朝ご飯」


 「今行く」


 いつもの朝。


 でも。


 やっぱり莉奈は静かだった。


 「行ってきます」


 玄関。


 「行ってらっしゃい」


 母さんが言う。


 「兄貴も」


 「ん?」


 「今日、帰り」


 莉奈が少し迷う。


 「……早めに帰ってきて」


 その一言に。


 俺は振り返った。


 「何かある?」


 「ない」


 また。


 「でも、早めに」


 「分かった」


 俺は答えた。


 理由を聞かない。


 ただ。


 約束する。


 「じゃあ、行ってくる」


 「うん」


 莉奈が先に歩き出す。


 俺はその背中を見送った。


 そして。


 少しだけ胸がざわついた。


   ◇


 学校。


 午前中の授業が終わった。


 昼休み。


 灯里が声をかけてくる。


 「おはよう」


 「もう昼だよ」


 「じゃあ、こんにちは?」


 「こんにちは?」


 「なんか嬉しそう」


 「そう?」


 「うん」


 昨日、一緒に帰ったことを思い出す。


 ほんの少し。


 胸が熱くなる。


 「昨日ね」


 灯里が言った。


 「神谷くんと話してたら、ちょっと元気になった」


 「それならよかった」


 「うん」


 笑う。


 「……ありがとう」


 その言葉を聞いて。


 また胸が騒ぐ。


 俺は視線を逸らした。


 「いや、別に」


 「照れてる?」


 「照れてない」


 「ふふ」


 灯里が楽しそうに笑う。


 そのとき。


 俺のスマートフォンが震えた。


 莉奈から。


 『兄貴』


 『何?』


 既読。


 返信がない。


 一分。


 二分。


 三分。


 俺が画面を見ていると。


 ようやく。


 『放課後、駅』


 それだけだった。


 『分かった』


 送る。


 すぐに既読。


 そのまま。


 何も来ない。


 「妹ちゃん?」


 灯里が聞く。


 「うん」


 「何かあった?」


 「……分からない」


 俺はスマートフォンを見る。


 嫌な感じがする。


 この二日。


 莉奈の様子がおかしい。


 でも。


 本人は何も言わない。


 俺は少し考えて。


 「今日、一緒に帰る約束してるから」


 「そっか」


 灯里が笑った。


 俺は。


 その笑顔に。


 ほんの少しだけ心残りを感じた。


   ◇


 放課後。


 俺は駅へ急いだ。


 約束の時間より少し早い。


 改札前。


 莉奈を探す。


 いない。


 五分。


 十分。


 「……遅いな」


 そのとき。


 スマートフォンが鳴った。


 『ごめん』


 『どうした?』


 『今向かってる』


 それから十分。


 莉奈がやって来た。


 いつもより。


 ずっと疲れた顔をしていた。


 「お疲れ」


 「……うん」


 「何かあった?」


 「……」


 莉奈は答えない。


 俺は歩き出す。


 莉奈も隣に来る。


 しばらく無言。


 駅から家までの道。


 いつもなら。


 「プリン買って」とか。


 「今日こんなことあった」とか。


 何かしら話す。


 でも今日は。


 何もない。


 「莉奈」


 「何?」


 「本当に、何もない?」


 「…………」


 莉奈が立ち止まった。


 俺も止まる。


 「……学校で」


 ようやく。


 声がした。


 「喧嘩した」


 「……そっか」


 「うん」


 「理由は?」


 「言いたくない」


 「分かった」


 俺はそこで止めた。


 「でも」


 莉奈が俺を見る。


 「困ってるなら言って」


 「……分かった」


 また歩く。


 しかし。


 数メートルも進まないうちに。


 後ろから声がした。


 「兄貴」


 「ん?」


 「……やっぱり」


 「うん?」


 「兄貴に相談したい」


 俺は振り返った。


 その顔は。


 少しだけ泣きそうだった。


 「どうした?」


 莉奈が話し始める。


 「まだクラスでちゃんと馴染めてない子もいて」


 「うん」


 「その子と、ちょっと揉めた」


 「何が?」


 「私のせいにされた」


 俺は眉をひそめる。


 「どういうこと?」


 「文化祭のことで」


 莉奈は話した。


 文化祭の準備で。


 ある作業のミスがあった。


 その責任を。


 莉奈に押しつけられた。


 でも。


 「本当は私じゃない」


 「そうなの?」


 「うん」


 「じゃあ先生に――」


 「駄目」


 莉奈が遮った。


 「なんで?」


 「大ごとにしたくない」


 「でも」


 「兄貴」


 莉奈は。


 少しだけ強く俺を見る。


 「私は自分で解決したい」


 その言葉を聞いた。


 俺の中で。


 何かが揺れた。


 助けたい。


 そう思った。


 今すぐ。


 学校へ行って。


 事情を聞いて。


 相手に話して。


 莉奈の誤解を解いて。


 全部終わらせたい。


 それが一番簡単だ。


 俺は困っている人を見ると。


 すぐに動いてしまう。


 今までだって。


 そうしてきた。


 でも。


 莉奈は。


 「自分で解決したい」と言った。


 なら。


 俺にできることは。


 何もしないことなのだろうか。


 それは。


 俺にとって。


 ものすごく難しいことだった。


 「……分かった」


 ようやく。


 そう答えた。


 「本当に?」


 「ああ」


 俺は少し考える。


 「お前が手伝ってほしいって言うまで、待つ」


 「…………」


 莉奈が黙った。


 そして。


 少しだけ笑った。


 「兄貴って」


 「うん」


 「たまに、変なところで優しいね」


 「たまにって何だよ」


 莉奈が笑う。


 その笑顔を見て。


 俺も少し笑った。


 これで。


 よかったのだと思った。


 俺はそう信じた。


 ――その夜までは。


   ◇


 夕食。


 莉奈は少しだけ元気になっていた。


 「今日は学校で――」


 話しかけようとした、そのとき。


 莉奈のスマートフォンが震えた。


 画面を見る。


 莉奈の表情が固まる。


 「……どうした?」


 「何でもない」


 また。


 その言葉。


 でも今度は。


 俺にも分かった。


 明らかに。


 何でもなくない。


 「見せろ」


 「嫌」


 「じゃあ、話して」


 「嫌」


 莉奈が立ち上がった。


 「もういい」


 「待てよ」


 「兄貴には関係ない」


 その言葉に。


 俺の胸の奥が。


 強く揺れた。


 「関係あるだろ」


 「ない!」


 「俺は兄なんだから!」


 口から。


 反射的に出た。


 莉奈が振り返る。


 「……だから嫌なの」


 「え?」


 「兄貴だからって、何でも助けようとしないでよ!」


 家の中が。


 静かになった。


 母さんも。


 何も言わない。


 俺は。


 立ったまま動けなかった。


 「私だって」


 莉奈の声が震える。


 「自分でできることくらいある」


 「……」


 「兄貴に全部やってもらわなくてもいい」


 「俺は」


 「分かってる」


 莉奈が言う。


 「優しいんだって分かってる」


 一拍。


 「でも……」


 目を逸らす。


 「それが、嫌なときもある」


 そして。


 莉奈は自分の部屋へ戻っていった。


 俺は。


 ただその場に立っていた。


 「兄だから」


 そう言えば。


 何でも許されると思っていた。


 兄なら。


 助けるべきだ。


 兄なら。


 守るべきだ。


 兄なら。


 頼られるべきだ。


 でも。


 その「兄」という言葉を。


 俺は。


 自分の都合のいい免罪符にしていただけなのかもしれない。


 莉奈のためではなく。


 「兄である自分」のために。


 何かをしてあげたかったのかもしれない。


 俺は。


 父さんの写真を見る。


 父さんなら。


 今の俺を見て。


 何と言うだろう。


 分からない。


 ただ。


 「守る」ということは。


 相手の前に立ち続けることではない。


 時には。


 相手の前から、一歩下がることなのかもしれない。


 俺には。


 その一歩が。


 ものすごく難しかった。


   ◇


 その夜。


 俺は。


 莉奈の部屋の前まで行った。


 ノックしようとして。


 手を止める。


 そして。


 何もせず。


 自分の部屋へ戻った。


 初めて。


 「何もしない」という選択をした。


 それが。


 正しいのかは。


 まだ分からなかった。


 ただ。


 今の俺には。


 それしかできなかった。


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