16.灯里という女性
月曜日の朝。
俺は教室の窓から、ぼんやりと外を眺めていた。
校庭では、運動部の生徒たちが走っている。
まだ一時間目も始まっていないというのに。
元気なものだ。
俺には、ああいう健康的な精神が少しだけ足りない気がする。
「おはよう、神谷くん」
声がした。
振り向く。
白石灯里。
「おはよう」
「眠そう」
「昨日、ちょっと夜更かしした」
「ゲーム?」
「違う」
「妹ちゃん?」
「……まあ」
灯里が笑った。
「やっぱり」
「何が?」
「神谷くんって、最近ずっと妹ちゃんの話してる」
「そうかな」
「うん」
自分では、そんなつもりはなかった。
でも。
言われてみればそうかもしれない。
朝、何時に起きた。
何を食べた。
莉奈が何を言った。
帰ってから何をした。
そんな小さな出来事が、なぜか人に話したくなる。
自分の生活に、新しい人間が一人加わっただけ。
なのに。
その一人が、思った以上に大きな存在になっている。
「でも」
灯里が言った。
「神谷くんが楽しそうだから、聞いてるの結構好き」
「そう?」
「うん」
その笑顔を見て。
俺は一瞬だけ、言葉に詰まった。
灯里はよく笑う。
ただ笑うだけじゃない。
相手が話しやすくなるように笑う。
相手が困っているときには、少しだけ黙って待ってくれる。
そういうところがある。
俺とは違う。
俺は困っている人を見ると、すぐに何かしてしまう。
灯里は。
その人が自分から話し始めるまで待つことができる。
それが。
少しだけ羨ましかった。
◇
昼休み。
俺は弁当を食べ終えて、机に頬杖をついていた。
すると、灯里が自分の弁当箱を片づけながら言った。
「ねえ、神谷くん」
「ん?」
「ちょっと相談していい?」
その言い方が、少しだけ小さかった。
「もちろん」
「……ありがとう」
灯里が向かいの席に座る。
「実はね」
「うん」
「クラスの文化祭係なんだけど」
文化祭。
確か、来月だった。
「私、実行委員になってて」
「そうだったね」
「うん」
灯里は机の上にスマートフォンを置いた。
「仕事が、ちょっと多くて」
「何か手伝う?」
反射的に言った。
灯里が少し驚く。
「……まだ何も言ってないのに?」
「あ」
しまった。
いつもの癖が出た。
「ごめん。癖」
「ふふ」
灯里が笑う。
「神谷くんらしい」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「でも」
灯里は少しだけ視線を落とした。
「実は、ちょっと困ってる」
「やっぱり?」
「うん」
「じゃあ――」
「待って」
灯里が俺を止めた。
「……今日は、聞いてほしいだけ」
「……」
俺は口を閉じた。
聞く。
ただ聞く。
それだけ。
俺にとっては、案外難しいことだった。
「委員の仕事が多いの」
「うん」
「みんな忙しいから、お願いするのも悪いなって」
「……」
「でも、私が引き受けたことだから、自分でやらなきゃって思って」
「うん」
「それで」
灯里が苦笑した。
「ちょっと疲れた」
その言葉を聞いて。
俺は、何と言えばいいのか分からなかった。
「大丈夫?」は違う気がした。
けれど「俺が手伝う」は、もっと早すぎる。
だったら。
ただ。
「……疲れたんだね」
それだけを言った。
灯里は顔を上げた。
「うん」
「じゃあ、疲れたって思っていいんじゃない?」
「……」
「自分で引き受けたことでも、疲れるときは疲れるだろ」
灯里は少し黙った。
それから。
「ありがとう」
と笑った。
その笑顔は。
いつもの笑顔より、ずっと小さかった。
けれど。
俺には。
そのほうが本物に見えた。
人は。
笑っているときだけが、その人ではない。
疲れたとき。
困ったとき。
弱音を吐いたとき。
そういう姿も、全部その人だ。
莉奈に対しても。
最近、少しずつ同じことを考えるようになっていた。
妹らしいから好きなのではない。
生意気でも。
面倒でも。
学校では俺の知らない顔をしていても。
それでも莉奈だ。
そして今。
目の前の灯里も。
明るいクラスメイトであるだけではない。
疲れて。
困って。
それでも頑張ろうとしている、一人の女の子だ。
俺はたぶん。
こういう瞬間に弱い。
誰かが「助けて」と言う前の、ほんの小さな変化。
そこに気づいてしまう。
そして。
何かしてあげたくなる。
その気持ちが。
優しさなのか。
お節介なのか。
まだ俺には分からない。
◇
放課後。
教室には、俺と灯里の二人が残っていた。
窓の外は夕方。
オレンジ色の光が床に伸びている。
「これ」
灯里が資料を見せてくる。
「文化祭の配置」
「結構すごいな」
「でしょ?」
「これ全部、灯里が作ったの?」
「うん」
「そりゃ疲れるわ」
「だから言ったじゃん」
「じゃあ俺も手伝う」
言って。
すぐに止まった。
まただ。
また、俺は簡単に「俺も手伝う」と言った。
灯里が俺を見る。
「神谷くん」
「……分かってる」
「何が?」
「たぶん、俺、すぐ手を出しすぎる」
「ふふ」
「笑うなよ」
「だって」
灯里が笑う。
「ちょっとずつ分かってきたじゃん」
「何が?」
「人を助けるのって、全部やってあげることじゃないってこと」
その言葉に。
胸が少し熱くなった。
「……そうだな」
「だから」
灯里が資料を差し出した。
「この表だけ、一緒に見てもらっていい?」
「もちろん」
俺は受け取った。
一緒に机を囲む。
作業を始める。
予定を書き直す。
抜けているところを埋める。
分からないところを話す。
そのたびに。
灯里が笑う。
「神谷くん、意外とこういうの得意なんだね」
「最近も妹の宿題見てるから」
「また妹」
「すまん」
「ううん」
灯里は笑った。
「なんか、嬉しい」
「何が?」
「神谷くんが大事にしてるものの話、聞けるから」
「……」
心臓が。
ほんの少しだけ速くなった。
「それって」
「うん?」
「どういう意味?」
「どういう意味だと思う?」
灯里は笑った。
俺は答えられなかった。
たぶん。
この感情を。
俺はまだ名前にしたくなかった。
名前をつけてしまえば。
関係が変わってしまう気がする。
人は。
名前をつけたものを意識する。
好き。
嫌い。
友達。
家族。
恋人。
名前がついた瞬間。
それまで曖昧だったものが、形を持ってしまう。
そして。
形を持ったものは。
失うことも怖くなる。
父さんのことを思い出す。
失うことが怖いから。
大切なものに近づきすぎないようにする。
そんな自分が。
どこかにいる。
「神谷くん?」
「ん?」
「また難しい顔」
「考え事してた」
「最近、それ多いね」
「妹のせいかな」
「妹ちゃんのせい?」
「たぶん」
灯里が笑う。
「じゃあ、妹ちゃんに感謝だね」
「何で?」
「神谷くん、前より人のこと考えるようになったから」
「……」
俺は。
返事ができなかった。
自分でも。
薄々そう思っていた。
妹ができてから。
俺は人を見るようになった。
困っているから助ける。
ではなく。
どうして困っているのか。
何を望んでいるのか。
何を言いたくても言えないのか。
そこまで考えるようになった。
それは。
莉奈のおかげなのかもしれない。
そして。
今、目の前にいる灯里のことも。
もっと知りたいと思っている。
その気持ちが。
少しだけ怖かった。
◇
作業が終わった。
「ありがとう、神谷くん」
「こっちこそ」
「手伝ってもらってよかった」
「俺、そんなにもしてないけど」
「したよ」
「そう?」
「うん」
灯里が鞄を持つ。
「じゃあ、帰ろうか」
「うん」
二人で教室を出る。
廊下を歩く。
夕方の校舎は静かだ。
「神谷くん」
「ん?」
「今日は、妹ちゃんとの約束ある?」
「特にない」
「そっか」
少しだけ安心したように灯里が笑う。
「じゃあ、一緒に帰ろ」
「うん」
昇降口を出る。
夕焼け。
風。
人の少ない道。
二人で並んで歩く。
何を話すでもない。
でも。
沈黙が気まずくない。
それが。
不思議だった。
俺は。
誰かと一緒にいても。
「何か話さなきゃ」と思っていた。
でも。
灯里とは。
何も話さなくてもいい。
そのことが。
少し心地よかった。
「ねえ」
灯里が言った。
「何?」
「妹ちゃんができてから」
「うん」
「家、前より賑やかになった?」
「なった」
「そっか」
「……それと、寂しくなくなったかも」
言ってから。
自分で驚いた。
灯里は何も言わなかった。
でも。
しばらくして。
「それなら、よかったね」
と言った。
俺は小さく笑った。
「うん」
駅が見えてくる。
灯里と別れる。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
灯里が手を振る。
俺も手を振る。
そして。
一人になった。
なのに。
さっきまで一緒に歩いていた時間が。
妙に残っている。
家に帰れば。
莉奈がいる。
今日もきっと。
「兄貴」
と呼ぶだろう。
それを考えると。
自然に足が速くなる。
でも。
その一方で。
明日また学校へ行けば。
灯里にも会える。
そう思うと。
少しだけ楽しみになる。
その事実に気づいた瞬間。
俺は立ち止まった。
「……あれ」
胸の奥が。
ほんの少しだけ。
騒がしい。
妹ができたときとも。
人を助けたときとも違う。
もっと。
説明しにくい。
何だろう。
この感情は。
俺はまだ。
名前を知らなかった。




