15.妹と買い物
翌日の放課後。
俺は駅の改札前に立っていた。
時刻は、午後五時二十五分。
駅での約束の時間まで、あと五分。
俺の通う高校と莉奈の高校は違う。
だから普段なら、放課後に顔を合わせることなんてない。
朝に駅で別れて。
それぞれ違う学校へ行く。
それぞれ違う人たちと話して。
それぞれ違う時間を過ごす。
そして夕方になったら。
同じ家へ帰る。
考えてみれば。
俺たちは、一日の大半を別々の世界で生きている。
それなのに。
帰る場所だけは同じだ。
その事実が。
最近の俺には、不思議なくらい嬉しかった。
「……まだかな」
時計を見る。
五時二十七分。
五時二十八分。
五時二十九分。
俺はスマートフォンを見る。
連絡はない。
五時三十分。
「遅いな……」
別に怒っているわけではない。
ただ。
少しだけ心配になった。
学校で何かあったのだろうか。
友達と話していて時間を忘れたのか。
電車が遅れているのか。
それとも。
俺との約束を忘れていたのか。
最後の考えが浮かんだ瞬間。
胸の奥が少しだけざわついた。
忘れていたなら。
どうしよう。
俺が勝手に待っているだけなら。
なんだか格好悪い。
そう思った、そのとき。
「兄貴!」
聞き慣れた声がした。
顔を上げる。
人の波の向こう。
莉奈が走ってくる。
「ごめん!」
「遅い」
「ごめんって」
「何してた?」
「友達と話してた」
「それなら仕方ないか」
「何、その言い方」
莉奈は息を整えながら笑った。
「ちゃんと待ってた?」
「待ってるからここにいるんだろ」
「……そっか」
莉奈が小さく笑う。
その表情を見た瞬間。
俺の胸のざわつきは、きれいに消えた。
人を待つというのは。
不思議な行為だ。
待っているあいだは。
その人が来るかどうかも分からない。
何かあったのではないかと不安になる。
それなのに。
姿を見つけた瞬間。
さっきまでの不安なんて、全部どうでもよくなる。
たぶん。
「待つ」というのは。
その人が帰ってくることを信じる行為なのだ。
俺は。
ほんの数十分前まで。
莉奈が来ると、勝手に思っていた。
そして。
実際に来た。
それだけのことなのに。
嬉しかった。
「で、今日は何するんだ?」
「買い物」
「何の?」
「生活用品」
「一人で行けばいいじゃん」
「兄貴がいたほうが楽だから」
「便利だから、の間違いじゃない?」
「……どっちでもいい」
莉奈が歩き出す。
俺も隣へ並ぶ。
駅前の道を、二人で歩く。
「どこ行くの?」
「駅の近くのショッピングモール」
「何買う?」
「いろいろ」
「いろいろって?」
「いろいろは、いろいろ」
「雑だな」
「兄貴に全部説明する必要ないでしょ」
「そりゃそうだけど」
俺は笑った。
こういう会話にも。
少しずつ慣れてきた。
最初は何を話せばいいのか分からなかった。
今は。
何を話しているのか分からないのに、話している。
それが。
少し嬉しい。
◇
ショッピングモール。
「まず、これ」
莉奈がカゴを取る。
「何?」
「シャンプー」
「家のやつ?」
「うん」
「なくなった?」
「もう少しでなくなる」
「じゃあ二つ買う?」
「重いから一つ」
「俺が持つ」
「……そう」
莉奈は何でもない顔でカゴに入れる。
俺はカゴを持った。
「次」
「まだあるの?」
「いっぱいある」
「まさか、全部俺に持たせるつもりじゃないだろうな」
「……どうだろう」
「おい」
莉奈が笑う。
そして。
俺の手からカゴを取ろうとする。
「いいよ」
「兄貴が持つって言ったんでしょ」
「でも、全部任せるのは悪いし」
「別にいいって」
そう言って俺はカゴを持ち直した。
すると。
「……ありがと」
莉奈が小さく言った。
俺は聞き返さなかった。
わざと。
こういう瞬間は。
追及すると消えてしまう。
人の素直な言葉というのは。
とても脆い。
言った本人が恥ずかしくなれば。
すぐに引っ込められてしまう。
だから。
そのまま受け取ればいい。
そう思うようになった。
「次、どこ?」
「食器。家で足りないから」
食器売り場へ向かう。
莉奈が皿を手に取る。
「これどう?」
「いいんじゃない?」
「適当」
「ちゃんと見てる」
「どこが?」
「白い」
「それだけ?」
「割れにくそう」
「……それだけ?」
「あと、俺が好きな色」
「それ、私に関係ある?」
「ない」
「じゃあ意味ないじゃん」
莉奈が笑う。
それから。
もう一枚、別の皿を手に取った。
「こっちは?」
「いいと思う」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、こっちにする」
俺は少し驚いた。
「俺の意見で決めるの?」
「だって兄貴に聞いたから」
「……そっか」
なんだろう。
ほんの小さなことなのに。
俺は少し嬉しくなった。
自分の意見を聞いてもらう。
それ自体は、珍しいことではない。
でも。
莉奈が俺に聞く。
俺が答える。
莉奈がそれを参考にする。
そういう小さなやり取りが。
「家族」っぽく感じられた。
◇
買い物を続ける。
洗剤。
タオル。
靴下。
気づけば、カゴはかなり重くなっていた。
「これ、絶対買いすぎだろ」
「大丈夫?」
「いや、大丈夫だけど」
「でも」
「兄貴だから」
俺はそう言った。
自分で言ってから。
少し笑ってしまう。
いつの間にか。
その言葉を、俺まで使うようになっていた。
莉奈が俺を見る。
「……兄貴」
「何?」
「最近、それ言うようになったね」
「何が?」
「『兄貴だから』って」
「……」
確かに。
いつの間にか口癖になっていた。
「別にいいだろ」
「ふーん」
莉奈は前を向く。
少しだけ笑っている。
俺はそれを見て。
なぜか、もっと笑いたくなった。
◇
買い物が終わる。
モールを出る。
外は、もう薄暗くなっていた。
「疲れた」
俺が言う。
「兄貴が勝手に持ったんでしょ」
「お前が持たせたんだろ」
「持つって言ったの兄貴じゃん」
「そうだけど」
「じゃあ文句言わない」
「はいはい」
二人で歩く。
ふと。
莉奈が立ち止まった。
「どうした?」
「ちょっと」
莉奈が駅とは反対方向を見る。
「寄りたいところある」
「どこ?」
「こっち」
ついていく。
小さな公園があった。
ベンチ。
遊具。
夕方の子供たち。
莉奈がベンチに座る。
「休憩?」
「うん」
俺も隣に座った。
少しだけ。
何も話さない。
風が吹く。
木の葉が揺れる。
遠くで子供の笑い声が聞こえる。
莉奈が空を見る。
「こういうの」
「ん?」
「好き」
「公園?」
「うん」
「意外」
「何で?」
「もっと賑やかなところが好きかと思ってた」
「そんなことない」
「そうなんだ」
「こういう、何もないところのほうが楽」
「……分かる」
俺も空を見た。
夕方の空は。
昼間より色が濃い。
何もない。
でも。
何もないからこそ。
頭の中にあることが、少しだけ分かる気がする。
「学校ではさ」
莉奈が突然言った。
「うん」
「私、結構しゃべるんだよ」
「知ってる」
「何それ」
「前に見たから」
「ああ」
「友達といるとき、楽しそうだった」
莉奈が少し笑った。
「学校の私は」
「うん」
「兄貴の前とは、ちょっと違うでしょ」
「うん」
「どっちが本当の私だと思う?」
意外な質問だった。
俺はすぐには答えなかった。
少し考えて。
「どっちもじゃない?」
「……」
「家で俺に偉そうなのも」
「偉そうって何」
「学校で友達と笑ってるのも」
「うん」
「どっちも莉奈だろ」
莉奈が黙った。
そして。
「……そっか」
小さく言った。
人間は。
相手によって態度が変わる。
それは嘘ではない。
むしろ。
誰に対しても同じ顔をしているほうが、難しい。
家では甘える。
学校では笑う。
友達には強がる。
一人では泣くことだってある。
それら全部が。
その人なのだ。
「兄貴の前では」
莉奈が続ける。
「ちょっとだけ気を抜ける」
「……え?」
「だから」
少しだけ間を置いて。
「こういう話もできる」
俺は。
何も言えなかった。
嬉しかった。
でも。
それと同時に。
少しだけ責任のようなものも感じた。
気を抜ける場所というのは。
失うと怖い場所でもある。
俺は。
その場所を壊したくないと思った。
「そっか」
それだけ答えた。
莉奈も。
「うん」
それだけだった。
そして。
また二人で空を見る。
しばらく。
誰も喋らなかった。
でも。
その沈黙は。
不思議と心地よかった。
◇
帰り道。
「兄貴」
「ん?」
「今日、楽しかった?」
「うん」
「……私も」
莉奈が言う。
その声は小さい。
でも。
確かだった。
「また行く?」
「行く」
「じゃあ、次はもっと遠く――」
「兄貴」
「ん?」
「その前に」
莉奈がこちらを見る。
「……また、一緒に帰ろう」
「もちろん」
俺は笑う。
「約束」
「うん」
二人で歩く。
同じ方向へ。
同じ家へ。
同じ時間を重ねながら。
俺は思った。
家族というものは。
突然完成するものではない。
昨日まで他人だった二人が。
一つの食卓を囲んで。
同じ道を歩いて。
少しずつ相手の好きなものを知って。
言わなくても分かることが増えて。
そうやって。
何でもない一日を重ねた先で。
いつの間にか。
「この人が家族だ」と感じるのかもしれない。
駅が近づく。
人の流れが増える。
莉奈は少しだけ俺との距離を縮めた。
肩が触れそうになる。
でも。
離れない。
俺も。
わざわざ離れなかった。
そのくらいでいい。
家族というのは。
近すぎなくてもいい。
遠すぎなければ。
それだけで。
ちゃんと繋がっている。
駅に着く。
俺たちは改札を抜ける。
帰る電車に乗る。
窓の外を流れる景色を見ながら。
俺はふと思った。
――最初は。
「妹が欲しい」と願った。
今は。
「莉奈と一緒に帰りたい」と思っている。
同じように見えて。
全然違う。
俺はもう。
「妹」という存在を求めているんじゃない。
莉奈と。
今日という一日を共有したいと思っている。
そのことが。
少しだけ。
嬉しかった。
◇
家に着く。
「ただいま」
「おかえり」
母さんの声。
莉奈も続ける。
「ただいま」
靴を脱ぐ。
買ってきたものを置く。
食器を棚へしまう。
洗剤を置く。
タオルを片づける。
どれも。
特別なことではない。
でも。
俺はその作業をしながら。
ふと。
気づいた。
いつの間にか。
俺の家は。
「母さんと俺が住んでいる家」ではなく。
「俺たちが帰ってくる家」になっている。
その違いは。
数字にすれば。
ほんの一人分。
でも。
心の中では。
思っていた以上に大きかった。
「兄貴」
「何?」
「これ」
莉奈が買ったばかりの皿を見せる。
「今日、兄貴が選んだやつ」
「うん」
「明日の朝から使う」
「そっか」
「……なんか」
「何?」
「嬉しい」
俺は笑った。
「俺も」
たった一枚の皿。
それが。
家族になっていくための。
小さな道具になる。
そんなことを思いながら。
俺は食器棚の前に立った。
その横で。
莉奈も。
新しく買った皿を、そっとしまった。
これで朝ご飯を食べる。
その明日が。
少しだけ楽しみだった。




