13.妹が風邪をひいた
人間には、どうしても油断する瞬間がある。
俺の場合、それは朝だった。
特に。
妹が「おはよう」と言わなかった朝は、なおさらだった。
「……?」
階段を下りる。
いつもなら、リビングから莉奈の声が聞こえてくる。
「兄貴、早くして」
とか。
「パンない」
とか。
「今日の天気はどう?」
とか。
ところが。
今日は静かだった。
時計を見る。
午前七時十分。
母さんはキッチンにいる。
「おはよう」
「おはよう、遼太」
「莉奈は?」
母さんが振り返った。
「あら。まだ起きてないの」
「そうなんだ」
「昨日、少し疲れたのかしらね」
俺は時計を見る。
七時十二分。
莉奈の高校までは、電車を一本乗り継いでいく。
学校までの距離だけなら、俺より少し遠い。
そろそろ起きないとまずい。
「俺、起こしてくる」
「お願い」
階段を上がる。
莉奈の部屋の前に立つ。
昨日までなら、ノックをして、
「莉奈、起きろ」
で終わりだった。
でも今日は。
「莉奈」
返事がない。
「起きてる?」
無音。
嫌な感じがした。
俺はもう一度ノックする。
「莉奈」
「……ん」
返事。
ほっとする。
「朝だぞ」
「……分かってる」
「学校遅れるぞ」
「……休む」
「え?」
思わず聞き返した。
「今日、休む……」
「どうした?」
「……なんか」
声が小さい。
「だるい」
俺は眉をひそめた。
「風邪?」
「……たぶん」
ドアを開けようとして、一瞬ためらう。
「入っていい?」
「……うん」
部屋へ入る。
カーテンは閉じたまま。
薄暗い部屋の中で、莉奈が布団にくるまっている。
いつもの莉奈とは違った。
髪は乱れている。
顔も赤い。
「……熱ある?」
「知らない」
「体温計は?」
「そこ」
指差した方向を見る。
机の上に体温計。
俺は取って、莉奈に渡した。
「測って」
「兄貴がやって」
「いや、それくらい自分で――」
途中で言葉を止めた。
莉奈の顔が、思っていたよりつらそうだった。
「……分かった」
体温を測る。
数十秒。
電子音。
俺が画面を見る。
「三十八度二分」
「……高い?」
「高いよ」
「じゃあ休む」
「最初からそう言ってただろ」
「うん」
莉奈が目を閉じる。
その姿を見ていると。
昨日までの「生意気な妹」という印象が、急に消えていく。
人間は。
元気なときと、弱っているときで。
こんなにも違って見える。
いつもは兄をパシリにして。
偉そうにして。
何でも一人でできそうな顔をしているのに。
今は布団の中で。
ただ静かに横になっている。
「水、飲む?」
「……うん」
俺は一階へ戻る。
水を持ってくる。
ベッドの横に置く。
「飲める?」
「うん」
「ちゃんと飲めよ」
「兄貴、うるさい」
「心配してるだけだろ」
「……そう」
莉奈は少しだけ笑った。
でも。
その笑顔は弱かった。
俺は部屋を出ようとする。
「兄貴」
「ん?」
「……行かないで」
足が止まった。
振り返る。
莉奈は目を閉じたままだった。
「……何?」
「別に」
「今、行かないでって」
「……言ってない」
「言っただろ」
「夢じゃない?」
「いや、普通に聞いた」
「じゃあ忘れて」
莉奈が布団を少しだけ頭まで引き上げる。
俺は。
何も言えなかった。
そして。
「……分かった」
ベッドの横にある椅子へ座った。
しばらく。
何も話さない。
時計の音だけが聞こえる。
カチ。
カチ。
カチ。
こういう時間は。
不思議なくらい長い。
普段なら。
何かしなければ落ち着かない。
スマートフォンを触ったり。
テレビを見たり。
誰かと話したり。
人間は沈黙を埋めようとする。
静かな時間があると。
「何かしなくては」と思ってしまう。
でも。
今は。
何もしなくていい気がした。
莉奈が眠っている。
俺がここにいる。
それだけでいい。
しばらくすると。
「……兄貴」
「ん?」
「学校」
「休むよ」
「兄貴は行って」
「俺はいい」
「駄目でしょ」
「一日くらい」
「駄目」
「お前が言う?」
「兄貴だから」
「またそれか」
莉奈が少し笑う。
「兄貴だから、ちゃんと学校行って」
「……分かった」
俺は時計を見る。
少し遅い。
本当に遅刻する。
「じゃあ、母さんに頼んでおく」
「うん」
「帰ったら何か食べたいものある?」
「……分からない」
「考えといて」
「うん」
俺が立つ。
「兄貴」
「何?」
「……いってらっしゃい」
その声は。
昨日までの莉奈とは違っていた。
弱くて。
小さくて。
それでも。
ちゃんと俺に向けられていた。
「……行ってくる」
ドアを閉める。
廊下に出る。
俺はそこで。
一度だけ深呼吸した。
胸の奥が妙にざわついていた。
理由は分からない。
でも。
早く帰ってきたい。
今日は。
いつもの「家に帰る」という感覚とは違う。
莉奈が待っているかもしれない。
いや。
待っていなくてもいい。
ただ。
ちゃんと帰って。
「ただいま」と言いたい。
そんな気がした。
◇
学校に着いた。
「おはよう」
「おはよ」
いつもの挨拶。
いつもの教室。
いつもの席。
でも。
今日は妙に落ち着かない。
授業中。
何度も時計を見る。
スマートフォンを見る。
通知はない。
「神谷」
先生の声。
「はい!」
「教科書を開け」
「……はい」
クラスで笑いが起きる。
俺は苦笑する。
駄目だ。
集中できない。
「神谷くん」
隣から灯里が小声で話しかけてくる。
「また妹ちゃん?」
「……分かる?」
「顔に出てる」
「またか」
灯里は笑った。
「大丈夫?」
「熱が出たみたいで」
「そうなんだ」
「三十八度くらい」
「それは心配だね」
「うん」
俺は窓の外を見る。
「何かできることないかな」
「もうしてるんじゃない?」
「え?」
「今、神谷くんが心配してること自体が」
灯里は少しだけ考えてから言った。
「近くにいる人にできることって、案外そんなに多くないよ」
「……」
「薬を飲ませたり、ご飯作ったりはできるけど」
灯里が笑う。
「最後に治すのは、その子自身だから」
その言葉が。
妙に胸に残った。
助ける。
俺はそれが好きだ。
困っている人がいれば。
自分が何とかする。
そうやって生きてきた。
でも。
病気になった莉奈を前にすると。
俺には何もできない。
熱を下げることもできない。
痛みを消すこともできない。
眠っている莉奈の代わりに眠ることもできない。
できることは。
水を持ってくること。
布団を掛けること。
そばにいること。
それだけ。
でも。
それだけのことが。
今の俺にはものすごく重要に思えた。
人を助けるというのは。
何かを「してあげる」ことだけではないのかもしれない。
何もできないときに。
それでも離れないこと。
それもまた。
誰かを支えるということなのかもしれない。
「神谷くん」
「ん?」
「早く帰れるといいね」
「うん」
その言葉を聞いたとき。
俺は初めて気づいた。
俺は。
莉奈が早く元気になってほしいだけじゃない。
笑ってほしい。
いつものように、
「兄貴、これやって」
と面倒くさそうに言ってほしい。
俺をパシリにして。
偉そうにして。
くだらないことで喧嘩してほしい。
つまり。
俺が欲しいのは。
元気な「妹」という状態ではなく。
元気な莉奈なのだ。
その違いに。
俺は少しだけ驚いた。
◇
放課後。
俺はいつもより早く学校を出た。
スーパーに寄る。
栄養ドリンク。
ゼリー。
果物。
おかゆ。
そして。
プリン。
プリン売り場で。
俺は少し考えた。
「これでいいか」
前に莉奈が好きだと言っていたものを手に取る。
好きなものを覚えている。
それだけなのに。
自分が兄らしくなったような気がした。
もちろん。
兄らしさなんて、そんな単純なものではない。
でも。
誰かの好きなものを知る。
それだけでも。
その人との距離は少し縮まる。
俺は買い物袋を持って帰宅した。
「ただいま」
返事がない。
母さんがリビングから来る。
「おかえり」
「莉奈は?」
「まだ寝てるわ」
「そっか」
俺は二階へ上がる。
ドアの前で止まる。
ノック。
「莉奈」
「……ん」
「帰ってきた」
「……おかえり」
「ただいま」
そのやり取りだけで。
少し安心した。
「何か食べる?」
「いらない」
「プリンは?」
「……食べる」
「食べるんじゃん」
「プリンは別」
「病人の理屈だな」
「うるさい」
扉越しに。
小さく笑う声がした。
俺も笑った。
ああ。
よかった。
まだ。
莉奈は莉奈だ。
◇
夜。
莉奈は少し熱が下がったらしい。
俺はベッドの横に座りながら、水を渡す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「兄貴」
「ん?」
「今日さ」
「うん」
「学校から、なんでそんな早く帰ってきたの」
「……心配だったから」
莉奈は黙った。
数秒。
「……そっか」
その声が。
ほんの少しだけ震えていた。
「兄貴」
「何?」
「私さ」
「うん」
「ここに来る前」
そこで言葉が途切れた。
俺は待った。
急かさない。
「……新しい家って、嫌だったんだ」
初めて聞く言葉だった。
「お父さんが決めたことだから、仕方ないと思ったけど」
「……」
「知らない人と暮らすの、怖かった」
俺は何も言わなかった。
「兄貴も、最初は怖かった」
「俺?」
「うん」
少しだけ笑う。
「変な人だったらどうしようって」
「ひどい」
「でも」
莉奈は布団の中から俺を見る。
「思ってたより、いい人だった」
「……そうか」
「だから」
目を逸らす。
「……ちょっと安心した」
その言葉を聞いて。
胸の奥が熱くなった。
俺は。
妹が欲しかった。
ずっと。
でも。
莉奈にとって俺は。
「突然できた兄」だった。
嬉しいとか。
楽しいとか。
そんな気持ちより前に。
怖かったのかもしれない。
警戒していたのかもしれない。
当たり前だ。
家族の形が突然変わるのは。
誰にとっても簡単なことじゃない。
「……俺は」
「何?」
「お前が来るって聞いたとき」
俺は少し笑った。
「正直、楽しみだった」
「やっぱり変」
「何でだよ」
「妹が欲しいって言ってたんでしょ?」
「まあ」
「変なの」
「いいだろ」
「うん」
莉奈が目を閉じる。
「……兄貴」
「何?」
「また明日」
「おう」
「ちゃんと起こして」
「分かった」
「……ありがと」
「どういたしまして」
莉奈の呼吸が少しずつゆっくりになっていく。
眠ったらしい。
俺はしばらく、その顔を見ていた。
そして。
ふと。
思った。
家族になるというのは。
誰かを自分のものにすることではない。
その人が安心して眠れる場所を。
少しずつ一緒に作っていくことなのかもしれない。
俺には妹ができた。
でも。
莉奈には。
突然、兄ができた。
その違いを。
俺はこれまで、あまり考えていなかった。
俺は「妹ができて嬉しい」と思っていた。
でも。
莉奈は「兄ができてよかった」と。
いつか思えるのだろうか。
その答えを。
俺は急いで求めなくていいと思った。
数日でも。
数か月でも。
何年でも。
時間をかけて。
一緒に暮らして。
一緒に笑って。
一緒に喧嘩して。
その先で。
家族になればいい。
俺は椅子から立ち上がった。
部屋の明かりを少し落とす。
「おやすみ、莉奈」
返事はない。
でも。
眠った莉奈の口元が。
ほんの少しだけ。
笑ったように見えた。
俺は部屋を出た。
廊下を歩く。
階段を下りる。
そこで。
父さんの写真が目に入った。
俺は足を止めた。
昔の父さん。
笑っている。
「……父さん」
俺は小さく呟いた。
「妹って、結構大変だな」
当然。
写真は何も答えない。
でも。
なぜだか。
父さんなら笑っているような気がした。
俺は少しだけ笑った。
そして。
静かな家の中で。
「明日も、この家に帰ってこよう」
と思った。
それは。
俺一人のためではなく。
誰かがいる場所へ帰るためだった。




