12.妹イベントが来た!
土曜日。
朝の八時。
俺はリビングのソファに座っていた。
テレビはついている。
けれど、内容はほとんど頭に入っていない。
理由は簡単だ。
今日。
俺には妹との予定がある。
いや。
正確に言えば。
妹に付き合わされる予定がある。
「兄貴」
階段から声がした。
「ん?」
莉奈が降りてくる。
いつもの制服ではない。
私服だ。
薄い色の上着に、動きやすそうな服。
髪も普段より少しだけ整えている。
俺は思わず見てしまった。
「……何?」
「いや」
「何か言いたそう」
「別に」
「じゃあ見ないで」
「それは無理だろ」
「なんで?」
「妹が目の前にいるから」
「意味分かんない」
そう言って、莉奈はソファの反対側に座った。
俺はテレビを見るふりをする。
でも、頭の中では別のことを考えていた。
これは。
かなりの妹イベントではないだろうか。
俺は思わず手を握った。
落ち着け。
俺は兄だ。
兄妹で出かけるだけ。
何も特別なことじゃない。
そう。
特別じゃない。
……たぶん。
「兄貴」
「何?」
「もう少しで出かけるよ」
「どこへ?」
「本屋」
「……それだけ?」
「何を期待してたの?」
「いや」
俺は視線を逸らした。
「別に」
莉奈が怪訝そうに俺を見る。
「兄貴って、たまに変だよね」
「お前にだけは言われたくない」
「なんで?」
「なんでも」
母さんがキッチンから顔を出す。
「二人とも、朝ご飯食べてから行きなさいね」
「はーい」
莉奈が返事をする。
その声が少し弾んでいる気がした。
俺は横目で見る。
けれど。
莉奈は何でもない顔でトーストを食べている。
朝食が終わる。
出かける準備をする。
「じゃあ行くか」
「うん」
玄関へ向かう。
靴を履く。
ドアを開ける。
外はよく晴れていた。
休日の空気は、平日より少しだけ軽い。
駅へ向かって歩く。
俺と莉奈は、いつものように並んでいる。
ただ今日は。
学校へ向かうのではない。
目的地も同じ。
帰る家も同じ。
それだけのことで。
妙に「一緒に出かけている」という感じがした。
「兄貴」
「ん?」
「何でさっきからニヤニヤしてるの?」
「してない」
「してる」
「してない」
「してるって」
「してないって!」
莉奈が吹き出す。
「何がそんなに嬉しいの?」
「……妹と出かけるというのが初めてだから」
正直に言った。
莉奈は少し驚いた顔をした。
「……それが嬉しいの?」
「うん」
「一人っ子だったもんね」
「そう」
莉奈は前を向いた。
「じゃあ」
「ん?」
「今日は、ちゃんと付き合ってあげる」
「何その上から目線」
「兄貴が嬉しいなら、それでいいじゃん」
「…………」
俺は黙った。
その言葉が。
妙に胸に残った。
「付き合ってあげる」。
言葉だけ聞けば、偉そうだ。
でも。
その裏には。
俺が楽しみにしていることを莉奈なりに理解してくれているような気がした。
たぶん。
俺の妹は、優しい。
ただ。
その優しさを、素直な言葉に変えるのが苦手なのだ。
だから。
「兄貴だから」
という言葉に変わる。
「お願い」
という言葉になる。
そして時々。
「仕方ないから付き合う」
という形になる。
人はみんな。
自分にできる方法でしか、誰かに近づけないのかもしれない。
◇
本屋に着く。
莉奈は参考書のコーナーへ直行した。
「これ」
「数学?」
「うん」
「前に言ってたやつ?」
「そう」
莉奈は何冊か手に取って比較している。
俺は隣から覗く。
「どれがいいと思う?」
「俺に聞く?」
「一応、兄貴だから」
「その理由だけで信用していいのか?」
「半分くらい」
「低いな」
俺は真剣に中身を見る。
問題の量。
解説の分かりやすさ。
「こっちじゃない?」
「どうして?」
「説明が多いから。お前、途中式を飛ばすだろ」
「……なんで分かるの?」
「昨日宿題見たから」
「見てたんだ」
「見えるところに置いてあった」
莉奈は少しだけ笑った。
「じゃあ、それにする」
会計を済ませる。
店を出る。
「ありがと」
「何が?」
「選んでくれて」
「別に」
俺は照れ隠しに前を向いた。
すると。
「兄貴」
「ん?」
「このあとも、少し付き合って」
「まだあるの?」
「うん」
「何?」
「……服、見たい」
「へえ」
「駄目?」
その聞き方が。
昨日までとは違っていた。
命令ではない。
頼みでもない。
ただ。
相手の返事を待つ言い方。
俺は少しだけ嬉しくなった。
「いいよ」
「ほんと?」
「うん」
「……じゃあ行こ」
莉奈が歩き出す。
俺も後を追う。
その背中を見ながら。
俺は少し考えた。
莉奈は。
少しずつ。
俺に甘えることを覚えているのかもしれない。
◇
服屋。
「兄貴、どっちがいい?」
莉奈が二着の服を持ってくる。
「こっち」
「なんで?」
「色が似合う」
「……そういうの分かるんだ」
「妹だから」
「理由になってない」
「兄だから」
「兄も理由になってない」
俺たちは笑った。
莉奈は結局、俺が選んだほうを買った。
店を出る。
「気に入った?」
「うん」
「ならよかった」
莉奈は袋を見ながら歩く。
その表情は、少し嬉しそうだった。
でも。
そのあと。
「兄貴」
「何?」
「今日さ」
「うん」
「……楽しい?」
「え?」
俺は少し考える。
「楽しいよ」
「そっか」
「お前は?」
「……うん」
莉奈は、小さく頷いた。
それだけ。
でも。
俺には、それが何より嬉しかった。
俺たちは同じ時間を過ごしている。
同じ店を見て。
同じ道を歩いて。
同じことで笑っている。
その事実が。
家族という関係を、少しずつ現実のものに変えていく。
肩書きが家族だから家族なのではない。
たぶん。
一緒に過ごした時間が。
「この人は家族だ」という感覚を作る。
血のつながりのない俺たちは。
もしかすると。
血のつながった家族よりも。
そのことを強く意識する必要があるのかもしれない。
◇
帰り道。
空が少し赤くなってきた。
「兄貴」
「ん?」
「今度も」
「うん」
「……また一緒に出かけてもいい?」
俺は足を止めた。
莉奈も止まる。
「もちろん」
俺は即答した。
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「……一応」
「一応?」
「兄貴が、迷惑だったら嫌だから」
その言葉が。
胸に引っかかった。
迷惑。
そんなこと。
考えたこともなかった。
「迷惑じゃない」
「本当に?」
「本当に」
「……そっか」
莉奈が笑う。
ほんの少しだけ。
その笑顔を見て。
俺は思った。
最初。
俺は妹が欲しかった。
だから。
莉奈が「妹」になったことが嬉しかった。
でも今は。
莉奈と過ごす時間そのものが嬉しい。
その違いは。
とても小さいようで。
たぶん。
ものすごく大きい。
「兄貴」
「ん?」
「ありがとう」
「今日、何回言うんだよ」
「いいじゃん」
「珍しいな」
「……たまには」
莉奈が前を向いた。
耳が少し赤い。
照れているのかもしれない。
俺は気づかないふりをした。
家族だから。
分かりすぎないことも。
大切なのかもしれない。
◇
家に着く。
「ただいま」
「おかえり」
母さんが振り向く。
「どうだった?」
「楽しかった」
俺が答える。
すると。
莉奈も小さく、
「うん」
と言った。
その瞬間。
俺は少しだけ思った。
この家に。
新しい生活が始まったのだ。
父さんが亡くなってから。
母さんと俺だけだった家に。
莉奈がいる。
もちろん。
父さんの代わりにはならない。
母さんだって。
莉奈だって。
誰かの代わりではない。
人は。
失った人を別の誰かで埋めることなんてできない。
でも。
失ったあとにも。
新しい関係は作れる。
大切なものは。
過去と同じ形でなくてもいい。
俺はそのことを。
少しずつ理解し始めていた。
「兄貴」
「何?」
「夕飯のあと」
「うん」
「一緒にテレビ見ない?」
「いいよ」
「……じゃあ、決まり」
莉奈が部屋へ戻っていく。
俺はその背中を見送る。
そして。
ふっと笑った。
妹が欲しかった。
ずっと。
でも。
俺が欲しかったのは。
もしかすると。
「妹のいる人生」ではなく。
「誰かと一緒に暮らす人生」だったのかもしれない。
まだ。
それを確信することはできない。
けれど。
今日一日で。
確かなものが一つだけ増えた。
明日も。
この家に帰りたい。
莉奈がいる、この家へ。
その気持ちは。
昨日までの俺にはなかったものだった。
だから俺は。
その変化を。
少しだけ大切にしてみようと思った。
――そして翌朝。
「兄貴」
「ん?」
「コンビニ行ってきて」
「なんで!?」
俺の妹は。
やっぱり。
俺の理想とは、百八十度違っていた。
でも。
「……何買ってこればいい?」
そう尋ねている自分も。
昨日とは、少しだけ違っていた。




