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7縫い針

  

 宣告通り、沖田は夕闇に紛れ薬屋を尾行していた。

 

 薬屋は周囲をしきりに警戒する。

 沖田は、頭巾と普段は着ないような派手な縞模様の羽織をまとっていたが、気取られないよう難儀した。


 葵によれば薬屋は、独り者だと話していたらしい。

 住まいは長屋の一角を想像していたが、男が入っていった家はそれなりに大きい。


(やはり黒か……?)


 夕暮れがほどけ、夜の(とばり)が下り始めた。

 沖田は路地裏で息を潜めていたが、ふいに知った気配がした。

 

 鯉口を切る。

 次の瞬間、刀身を抜き放った。


 交える前に飛び下がる。遅れた縞羽織の袖が裂けた。

 暗闇に浮かび上がるぎょろりとした目。

 

「――蛇川さん、なぜ裏切ったのですか?」


 ひくっと蛇川は片頬を歪ませた。


「俺はもっと大きな仕事をしたいんだ。治安警備なんてちまちましたことは御免だね」

 

 言葉を切り、蛇川は猛然と沖田へ突っ込んだ。


 江戸にいた頃と変わっているが、蛇川の太刀を読むのは容易かった。

 だが、蛇川の剣に、最後まで彼を庇っていた林太郎の剣筋が見える。


 人を守る剣――それがちらつき沖田は決定打を出せないでいた。


 義兄である林太郎は、この裏切りを知ったらどうするだろうか。


「はあっ……さすが、汗一つかかないとはね」 


 蛇川はすっかり息が上がり、滝のような汗が伝っていた。


「蛇川さん。周りには、貴方をきちんと見てくれる人はいたはずだ」


「ふっ、天才の君とは比較にならないぼんくらの兄貴のことかい?」

 

「それ以上言わないほうが身のためですよ」


 沖田の眼光に気圧され、蛇川はじりじり後ずさる。

 彼は壁まで追い詰められるとぐっと喉を鳴らした。


「ゆ、赦してくれ。降参する」


 からんと刀が地面を転がる。


 沖田は刀を下げかけ、柄を握る手を強くした。


 見透かすように蛇川は足元の水たまりを蹴り上げた。


「くっ」 


 蛇川が懐から煙玉を取り出し投げつける。もうもうと白幕が立ち込める。


 視界の一切が奪われる。

 沖田は自ら目を閉じ、動きを止めた。


 蛇川は蛇の如き刃を狙い澄ました。

 

「さよなら、天才君」




 沖田家では、夜も更け子供たちはとっくに寝静まった。

 居間には葵とみつ二人がいた。

 

 みつは「二人の結婚について、考える時間をちょうだい」と言ったあの日以降も、葵に変わらずに接してくれていた。


 黙々と針仕事をするみつのその横で、葵も針を手にしていた。

 しかしその手つきは緩慢(かんまん)だ。 


(総司さん、まだ帰らない)


 沖田だけではない。

 土方も、林太郎も帰らないまま時が過ぎていた。

  

 物音がした気がして、葵ははっと振り返るが、戸を開く音は続かない。


 心ここにあらずな葵と違い、みつは慣れた手つきで、林太郎の綻んだ着物の襟元や足袋の穴など、次々修復していく。


(きっとみつさんも心配だろうに……)


 こうして心を揺らさずにただ夫の帰りを待つ。

 この境地に至るまで、何度心が裂かれそうな夜を過ごしたのだろうか。


 強く引いてもいないのに、葵の糸がぷっつり切れた。

  

 みつが静かに口を開いた。


「結婚のこと、私がどう考えているか聞かないのね」


 顔を上げると、みつがじっとこちらを見ている。

  

 答えを待つつもりでいるし、待った結果が二人の未来を否定するものだとしても、覚悟はしていた。

 

「葵さんは、本当にあの子と一緒になりたいの? 総司への想いはその程度なの?」


 縫い針が、人さし指へ深く沈んだ。

 眉をひそめて静かに抜き去ると、血が球状に滲み出す。

 針を置いて、血を唇へ触れた。


「……そうなのかもしれません」


 みつは針をぴたりと止めて、葵の顔を見据えた。

 そして、「ごめんなさい」と言って口を閉じ、葵の隣へ行って抱きしめた。


「総司のことを大切に思ってくれているのよね。わかってる。わかっているのに……」


 時折混じる嗚咽は、いつでも凛としているみつの、声なき叫びだった。

 

「みつさん、ごめんなさい。結婚にはもうこだわりません」


「葵さんは、それでいいの?」


――それで……いい


 熱くなった喉を開く。


「はい。もし、総司さんが他の方と一緒になっても……」


 笑って幸せになってくれるなら。


(駄目……)


 どうして、続きが出てこないんだろう。


(いなくなるくせに、縛ろうとしているの? 傍にいられればいいなんて思っていたくせに……)


 みつからしたら、葵が沖田の傍にいようとすることすら、耐え難いことかもしれないのに。


 葵は、みつの震える背をさすっていた。

 手で優しく上下を繰り返して。

 

(いつも総司さんがこうしてくれるから、私……)


 すっと、針痕の痛みが和らいだ。

 彼女から手を離し、畳へ頭を下げた。


「みつさん、もし赦していただけるなら……形は何でも構いません。総司さんのお傍にいさせてください」


 みつは袖で涙を拭って頷いた。

 


  



 扉が開いたのは丑三つ時を回った頃だった。


 葵が素早く腰を浮かす。

 みつを差し置くわけにいかないとわかっているのに、全力で駆けたかった。


 衝動を押さえつけみつの後に続くと、林太郎と土方が、上がり(かまち)へ足を乗せたところだった。


 もう葵の目には土方も林太郎も見えなくて、

 みつが言う「おかえりなさいませ」も耳に入らない。


「総司なら……」


 みなまで聞かずに、玄関から外に飛び出していた。

 裸足のまま、土を蹴り石を踏み、通りまで駆けた。


「あれ、葵」


「そ……うじさ……」


 蒼白になった唇がわなわなと震えて声にならない。

 沖田の羽織は袖部分がばっさり切れていた。


「切れたのは羽織だけ」


 軽い声を聞き、葵はその場にへたり込んだ。


 沖田は笑いながら近づき腕を取るが、芯を失った腕は、ぐにゃりと手をすり抜けてしまう。


「手、回して」

 

 言われるがまま葵は沖田の首へ手を回す。

 膝裏と背中に手が添えられ、ふわっと身体が浮いた。


「少しは俺の気持ちがわかった?」


 何も言えずに、視界の全てを厚い胸で塞いだ。

 息を、そのまま吸った。

 着物を通して沖田の匂いがして、もう一度吸った。


 葵は、何度も彼の香りを吸い込み、体温と心音を感じながら、

 

――もう、何もいらないから一生このままでいたい

 

 叶わない願いを反芻した。 


「ほら、大丈夫だから」


 震えながらしがみつく葵に優しく声をかけて、沖田は抱き上げたままいつまでもその場に待った。

 

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