5姉心
翌日、新徴組の屯所にて。
沖田は葵の顔を正面から確認し、目の下を軽く押した。
「寝られなかった?」
「……いえ」
無理もないか、と沖田は嘆息する。
元より彼女に望まれたわけでもないのに、自分のわがままでこうさせている。
(姉さんも……)
昔から家のために自分を後回しにしてきた姉は、「ちゃんと食べないと背が伸びない」としかめっ面で総司には白米をやって、
自分はひえやあわで水増しした雑炊を食べるような人だったから、今回の件も心配をかけているのだろう。
葵と姉を傷つけているかもしれないのに、彼女を囲われの女ではなく、居場所をきちんと作りたいという気持ちが、
おさまるどころか日増しに強くなる。
ただ葵のこんな顔を見ているのも辛い。
彼女を泣かせたくないと月に告げてから、もう数カ月経った。
なのに泣かせてばかりいる。
こんなふうでは葵がいなくなった後、慰みに思い出す彼女は泣き顔なのではないか。
(俺じゃない男なら、葵はもっと穏やかにいられるのか?)
一瞬考えかけて息が苦しくなった。
「総司さん?」
「……なんでもないよ。昨夜は悲しい思いをさせてすまなかったね」
「家族を大切にしているほど、とても受け入れられることではないと思いますから」
沖田は、微笑む葵の顔を見て、
彼女は周りを傷つけてまでこの結婚を通す気はないと悟った。
そういう人だから惹かれた、のに――
そのとき、前から蛇川が歩いてきた。
「総司君、皆が君の三段突きを見たがっているんだよ」
「はい、支度を終えたら行きます」
蛇川の背中や歩き方を逐一見ていると、葵が背伸びをして耳打ちしてきた。
「蛇川さんのこと、見るようにしますね」
沖田が眉を上げると、葵はさらに続ける。
「林太郎さんが言っていた"裏切り者"のこと、気になるんですよね?」
「……よくわかったね」
「ふふ、総司さんのこと、少しはわかるようになって来たのかもしれません」
わかってないよ、全然。
なんて意地悪な言葉が出かけたのは、彼女の笑顔を独り占めしたくなったからだ。
(わかってもらわない方が良いだろう。こんな歪んだ気持ちは……)
この重さを渡したら、葵の心が本当に押しつぶされるかもしれないのだから。
「じゃあ、行ってくる」
竹刀を手に前へ進み出た。
いつの間にか沖田の剣技を一目見ようと人が集まってきている。
「では、見せてもらおうか」
石井取締役に促され、静かに構えた。
次の瞬間、周囲は息を飲んだ。
空気を切り裂く鋭い音が連続し、最後の突きが止まった。
石井がわずかに目を細める。
「沖田総司。天才の看板に偽りなし、か」
沖田が竹刀を収めるとざわめきが広がる。
「今のどうやってやるんだ!?」
しかし当の本人は困った顔で肩をすくめる。
周囲は沖田を天才だ、神業だと持て囃すが、気づいたら出来るようになっていたのであり、教えを請われても答えることが難しい。
「踏み込んで三回打てばいいんですよ」
何度かそう伝えてみたが、誰も沖田と同じにはならないのだった。
新徴組の一人の隊士が隣に出た。
「それはいかんな。言葉に出来て初めて、技は物になるのだから」
いつもの沖田なら後回しにしそうな剣術理論だった。
だが今は、林太郎の新徴組での立場を思い素直に振る舞うよう心がけた。
人だかりの中で葵が瞬きしている。
どうしたって彼女を見つけられる。
何処にいても、紛れていても。
探すなと言われる方が無理だった。
葵は心配そうに胸の前で手を握りしめていた。なのに目が合うと、花がほころんだように笑んで、手を小さく上げた。
自分の胸の中にも花が舞い込んだようで、沖田もふ、と頬を緩めていた。
◆
その日、みつが台所でぼんやりしていると総司が起きてきた。
「喉が渇いて」
そう言って水瓶から水を取る弟は、見上げるほど大きくなった。
背が小さくて、男の子なのにこれじゃあと心配していたころはとうに過ぎた。
「厠に行くのが怖い、柳の木の下に幽霊がいるー! なんて泣いていた頃の面影は、もうないのね」
「……いつの話をしてるの」
総司は苦笑して、飲み終えた茶碗を台へ置くと、みつの前に腰掛ける。
「ねえ総司、もう一度ちゃんと聞きたいの」
「……うん」
「葵さんが帰ってしまったら、あなたは葵さんのことを忘れるのよね?」
「そういうことらしいね」
「まるで他人事みたい」
「誰が忘れても、俺は忘れないと信じてる」
「忘れたほうがいいわ……誰も覚えていないのよ? そんな中総司だけが……存在しない彼女を一人で一生想い続けるの? そんなの普通の精神でいられないわ」
「別にいいよ、それで」
みつは絶句した。
総司の目は、希望に満ちてなどいなかった。冷たく暗い水底をさらって出てくる泥水のようでいて、なのに氷のように澄んでいた。
「葵さんは……それを望んでいるの?」
「まさか。勝手にこちらがそう思ってるだけ。だから、案外あっさり葵のこと、忘れちゃうかもね」
剽げてみせた総司は、いつもの弟の顔だった。
「姉さんなら、義兄さんと子どもたちのことを忘れたいと、そう思う?」
「……わからない」
本心からわからなかった。ただ、忘れて幸せになった自分は、果たして本当に自分なのか。
「どうして……葵さんなの?」
「そりゃ、言い出せばキリがないよ。だけど……葵といると普通に戻れる。役割がいらない。ただ、沖田総司でいられる」
みつは黙って耳を傾けた。
幼いころから神童とされ、大人の期待を一身に受け、
道を外れることなく天才剣士の名を欲しいままにしてきた弟の独白は、淡々としている。
「多分彼女は俺でなくても幸せになれる……だけど、俺は違う」
「総司……」
彼の寂しそうな笑顔は、試衛館に預けた日と変わらない。
だけど、新選組一番組組長として人を斬ったこともある弟は、もはや姉である自分の知らぬところに行っている。
そしてそのどの顔をも受け入れられるのは、葵なのかもしれないと。
みつも水瓶から水を注ぐ。
「いる?」
お代わりを聞くと、うん、と総司は明るく笑った。




