1江戸城
かくして、江戸。
片道二週間の道のりを越えてたどり着いた。
沖田が周囲を見回す。
「……葵の住まいだったのはこの辺り?」
「はい。多分」
少し先には、圧倒的な存在感を放つ江戸城が見えていた。
ここは現代でいう東京都千代田区飯田橋。
(当たり前だけど、現代と全然違う)
高校の帰り道、自転車で友達と寄ったファミレスはない。
飯田橋の駅から颯爽と降りてくるオフィスワーカーも、彼らが通っていたはずの高層ビルもない。
そして、葵の家ももちろんない。
「様子が大分違うのですが、この辺に住んでいました」
「未来はどんな感じなの?」
「高い建物がたくさんあって……」
「高いったってなあ、江戸城ほど高くて立派な建物なんかねえだろ?」
土方が胸を張り、誇らしげにしている。
「江戸城よりずっと高い建物がたくさんあります。なんなら倍くらい高い物もあります」とは何となく言えない。
曖昧に笑う。沖田が心配そうな顔をした。
「平気、じゃないよな……」
なにもかも失くした現実を目の当たりにして、葵がショックを受けていると思ったらしい。
「いえ、覚悟して来ましたから」
あまりに違いすぎてショックすら沸かない。
「って、沖田さん!?」
沖田は、突然その場に正座し始めた。
「葵のご両親には会えないけど、ご挨拶させてもらおうかと」
侍が往来で座り込むから、周りの人が何か始まるのかと注目する。
慌てて腕を引き上げようとするも、彼は地べたに座ったまま背筋を伸ばした。
「沖田総司と申します。かねてよりお嬢様のお人柄に深く傾倒しておりました。
願わくば、一生の連れ添いとしてお迎えしたく、本日はお許しを賜りに参じました」
朗々と述べると、顎を引き頭を下げる。
「なんでえあれ」「さあ、関わり合いにならねえほうかいいぞ」
ひそひそ冷たい声が聞こえるが、沖田は真剣な顔でもう一度頭を下げて、立ち上がった。
「返事がもらえなくてすまないね」
どうしてこの人は、億面もなくこういう振る舞いをするのだろうか。
「もう、これから大事な用があるのに……」
なくなったはずの葵の人生を全力で肯定してくれるから、泣いてしまいそうになる。
「こんな素敵な人、父が反対するはずありません」
「そうだといいけど。大切な一人娘だろうからね。実際にお父上に挨拶に行ったら、門前払いされるかもよ」
明るく背中を叩いてくれたので、葵も調子を取り戻そうと、沖田の膝下の砂をそっと払った。
「……門前払いされるというなら、私の方こそですよ」
これから葵は新徴組の屯所に行って、夜は沖田家にお邪魔する。
土方が心配するなと言う。
「林太郎さんは剣を見ればわかってくれるだろう」
彼は度々こうして「剣があればわかりあえる」という強引な一面がある。
(でも皆そうなのかな? 永倉さんなんかも剣と人柄を結びつけるし、総司さんも荒れてるときは剣に出るか)
「義兄さんは、江戸から京都に行ったときも最後まで残ると言っていたんだけど、近藤先生が『妻子がいるだろう』と江戸に帰してね。
だから、義兄さんと俺達の仲は良好だから安心して」
葵は頷くと同時に緊張してきた。
林太郎さんに会うこともだが、つまりライバル関係にある新徴組と、これから対面することに、だ。
沖田が陽射しを手で避けながら目をすがめる。
「新徴組の屯所、あれだ」
新徴組の屯所は、新選組に比べて何倍も大きく、武家屋敷らしい威厳があった。
「あれ、林太郎義兄さん?」
沖田が手を挙げると、門の近くにいた中年の武士が振り返った。
沖田林太郎——総司の義兄は、穏やかな笑みを浮かべて近づいてきた。
「よく来てくれた。……こちらが葵さんか。総司から聞いています」
林太郎の後ろで、年嵩の男が眉を上げる。
「このような女が屯所に上がるとは……京都の新選組はよほど人手が尽きたと見える」
女が来ると事前に聞いていたらしい。
彼は葵をジロジロ見た。今日葵は、袴だけ履いて男装はしていないから、居心地が悪い。
もう一人の若い隊士、蛇川が薄ら笑いをしている。
「新選組は八月十八日の政変で一躍名を挙げましたからね。こんなことなら俺も京都に残ればよかったなぁ」
痩せ型で、目ばかりが大きい男だ。
五十歳前の男が咳払いをした。石井武膳だ。新徴組の後の取締頭取。
「新徴組の格を下げるな」
彼は太い眉の下の三白眼をぎろりと蛇川達に走らせる。
土方も蛇川を一瞥し、前に出た。
「石井殿、初めてお目にかかる。新選組副長の土方歳三だ。
神木葵が女ということがお気に召さない者がいるようだが……どうです、屯所に上がる前に一手、交えてみないか」
石井はたくわえた白い顎髭をなぞる。
「おい蛇川。手合わせしろ」
「はっ!」
(い、今ここで!?)
だが、この空気はもう決定事項だ。
仕方なしに持ってきた竹刀を取り出す。
沖田たちと昔からの知り合いらしい蛇川は、妙に甲高い声でにこやかに会話している。
「林太郎さんの義弟の、総司君だったね。久しぶり。俺は林太郎さんの組でのびのびやらせてもらってるよ。どうせなら天才と名高い君とやりたかったな」
「うちの葵もなかなか出来ますよ。欲目でなくね」
沖田は、準備を終えた葵をずいっと前に押し出した。
「彼は低空の突きが得意だ。いつもの足さばきを忘れずに」
「はい」
アドバイスを胸に剣を握った。
構えた蛇川が、引きつったように片頬を歪ませた瞬間、身体がするりと沈む。
床を這う影のように葵の懐へ滑り込んだ。
(低い……!)
刀尖が、わずかな隙間を狙って毒蛇のごとく突き出される。
息を詰めて交わす。
次に蛇川が放ったのは、派手な大上段からの袈裟懸け。
しかしそれは囮だった。斬り下ろす直前で再び身体を沈め、低空の突き二連発を狙ってくる。
葵は今度は迎え撃った。
蛇川の刀が大きくはね上がり、姿勢が崩れた。
「ぐっ……!」
その隙に素早く間合いを詰め、蛇川の剣を地へ叩きつけた。
周囲の新徴組隊士たちから、驚きの声が漏れる。
「蛇川があんな細身の女に……?」
石井武膳は無言のまま葵を見つめていたが、じきに背を向け門の向こうに歩いて行く。
「林太郎、屯所内を案内してやりなさい」
「承りました」
葵は肩の力が抜けた。
ひとまずは認められたのだ。
蛇川は唇をぴんと引きつらせた。
「いやあ、恐れ入った。総司君の奥方候補は、ただ者じゃなかったようだね」
「いえ、蛇川さんの得意技を事前に聞いていましたから」
蛇川に向けて手合わせの礼をした。
遠巻きにしていた林太郎は、「謙虚なんだな」と沖田へ声をかけた。
「ええ、謙虚で正直者で優しくて、少々無理をするんで目が離せないんですが」
土方は、延々と惚気る沖田の背を押した。
「ほら行くぞ。よく自分の義兄に恥ずかしげもなく……」
「本当のことですから」
閉口した土方はしかし「まあ、いい女ではあるがな」と林太郎へ葵を推薦することを忘れないのであった。




