★御名答
文久四年(1864年) 二月中旬
近藤の部屋を出た沖田は、廊下を数歩進んだところで立ち止まった。
「元治、か」
元治は葵が予言してみせた、文久の次の年号。
――そこまで辿り着ければ
目を閉じずとも浮かぶのは、ただ一人の笑顔だけ。
沖田は堪えるように深く息を吐いた。
◆
その日、久しぶりに剣を取った沖田はずらりと若い隊士に囲まれていた。
稽古中の厳しい顔を潜めた彼は、冗談を言ってはけらけらと笑い、隊士たちもくつろいでいる。
「飲みに行きましょうよ、先生!」
「……そうだな」
「あれ、先生いつもならすぐ断るのに……良いことでもありました?」
「ん? まあね」
「ほら、藤堂さんからも言ってくださいよ」
通りすがった藤堂はぐいと輪に引き入れられると、沖田と肩を組んだ。
「行こうよ、たまには」
沖田は床を拭き掃除している葵を見た。
一緒に行くかとの確認だ。
葵は首を振り、いってらっしゃい、と目礼した。
「じゃあ、一軒だけ」
隊士達はわあっ! と沸き立つ。
遠巻きにしていた隊士たちも、笑い声を上げながら彼へ付いて出て行った。
人がいなくなると葵は、下っ端の役目である雑巾がけを再開する。
(総司さんって男女問わず、もてる)
剣を持たない沖田は一人の物腰柔らかな青年だ。にこやかにお年寄りに挨拶し、子どもと走って遊ぶ。
近寄り難いくせに、笑うと相好が崩れる。
しかし、気を許されたと踏み込めば、またわずかに距離が開く――
それでもそんな掴みどころのない彼は、葵には色んな顔を見せてくれる。
雪の一軒以降、ますます。
知らずににやけかけた頬を引き締める。
床を端まで拭き終えたとき、背後から声が落ちた。
「おい」
振り向けば隊士が三人がいた。
またこの人たちか。
腰を上げようとしたとき、目の前の雑巾に浅黒い裸足の足がどんと乗った。
「ここがまだ汚れてるぞ」
踏みつけにされた雑巾を諦めて立ち上がると、男達は手を広げて道を塞いだ。
葵の方が背が高いのに、三方向から一歩詰められると、視界が塞がるような圧迫感に身がすくむ。
「通れないので退いていただけませんか」
下品な笑いが起きた。
「あんまり意地悪すると先生にどやされるかな」
「ははっ、言わないでいてくれるよな? 葵さんはお優しいもんな」
彼らはわざとらしく互いを小突き合っている。
「私のなにがそんなに気に入らないんですか」
一人がさっと顔色を変え、雑巾を葵へ投げつけた。
「剣の腕も大したことねえくせに生意気言うな」
女に勝てない負け惜しみだ――そういうこともできたが、組紐を後ろ手に隠した。
強さの秘密を彼らの眼前にさらすことが無防備に思えた。
「お前みたいな女を、なんで先生が気に入るんだよ」
(そんなの、私が知りたい……)
床にへばりついた雑巾を無言で睨んでいると、一人がニヤリと口元を歪めた。
「屯所に女がいるのが珍しかっただけだろ。大方身体でも使って――」
「――それは、俺に対する侮辱?」
突然割り入った声に男達は振り向き、
ひいっ! と腰を抜かした。
開けた視界の先には、沖田が立っていた。
彼は背筋が凍るような微笑を浮かべながら男達の正面まで行くと、強引に顔を掴んで上げさせた。
「そんなに死に急いでるとは、知らなかったな」
笑い出す沖田に、男達は声も出ずに縮み上がっている。
氷笑に当てられ、葵まで自身の肩を抱いた。沖田はそれに気づくと男を振り捨て、視線を足元の連中へ注ぐ。
「処分は後だ」
その一言で、這うようにして男達は逃げ出した。
「葵」
沖田はがらりと雰囲気を変えた。やっと息を吹き返した葵は、かすれた声で尋ねる。
「総司さん、皆と町に行ったのでは……」
「最近葵が変だったからね。聞いても教えてくれないし」
「ごめんなさい。あの、処分とは……」
男達の処分を気にする葵に、彼は首をかしげた。
「知らないほうがいいと思うけど」
「一応お伝えすると、あの人たちから暴力は一切なく……」
「ふふ、葵は優しいんだね」
沖田は腰を折り、葵の目を覗き込んだ。
「あんな奴等の心配までしてあげるんだから」
(あ……)
彼の瞳に広がる湖が暗くなっている。
両の口端がにっこり上がった。
「今、怒ってるんだけど」
「存じております……」
怒っているのなら怒った顔をしてほしいのだが、こうして笑顔に隠されると脳が混乱する。
「どうして怒っているかわかる?」
「……あの人達を庇うようなことをしたからですか?」
「正解。半分は」
と、唇が額に落ちた。
慌てて入口に視線を走らせると、今度は余所見をしたまぶたに口づけられる。
「誰か来たらわかるよ」
彼は人の気配を敏感に察するので、葵より先にわかる。
(そうだった。じゃあ安心――)
「じゃなくて、ここ稽古場ですよ。風紀が乱れ……」
前にある喉奥で、くすりと笑い声が漏れた。
「自分の心配して?」
唇がこめかみへ移動する。
「さて、怒っている理由のあと半分は? 正解したら終わりにする」
(え)
引きつる頬へ吐息が掠る。
「ほ、報告しなかったから? 嫌がらせのことを……」
しどろもどろに答えつつ、次の唇の行き先を察し、はっと手で耳を覆った。
「仕置きも含んでいるから、避けるのは無し」
勝手な追加ルールに目を剥くも、耳から手を引き取られる。
「仕置きって……私、なにもしてないですっ」
なにもしてないねえ? と意味深な唇が耳たぶへ落ちる。
「ん……やっ……」
最近の沖田は、葵が熱くならない温度を弁えて触れてくれていたから、完全に虚を突かれていた。
「ちょっと、ストップ!」
沖田は飛び出した謎の横文字を無視したが、目元が赤らんだ葵に「じゃあ」、と解答の選択を与えた。
どれでしょうと涼しげに微笑まれる。
その間止まらない接吻の嵐を交わしつつ、なんとか思考を繋げて整理する。
「私が、総司さんの愛情を疑うから……?」
「御名答」
明朗に言うと唇を離し、彼は酸欠気味になった葵の腰を支えた。
「平気?」
「……平気じゃないです」
ごめんごめん、と微笑う沖田はようやく、いつも通りに戻ってくれた。
(総司さんの愛を疑っているわけではなく、たまに自信がなくなるだけなんです)
そんなことを溢して、またなにやらされては敵わないので口を噤む。
自分はただの女子高生。かたや沖田は幕末の天才剣士。
釣り合いが取れないと嘆くことすら、おこがましいかもしれない。
「さ、そろそろ行かなくちゃ。葵も用があるんでしょう?」
「そうでした!」
「夜は会議があるから、遅くなったら待たずに先に寝ていて」
「はい」
落ち着いてから一緒に屯所を出た。
甘味処まで葵を送り届けると、
「今日は冷える。遅くならないように」
過保護に言い置き、彼は去って行った。
葵は振り回されるのも悪くないと思う自分に半分呆れながら、甘味処の木戸を開いた。




