藤堂と原田
「これ、沖田さんの匂いだ……」
朝の光が差し込む部屋で、葵はほうっと息をつく。
手には沖田から借りた鬢付け油。
甘松というものらしいが、甘い爽やかな香りがしてくる。
(匂いで沖田さんのこと思い出すって、なんか……)
ふるふると頭を振る。
これは現代で言うハードワックスのようなものだ。
まだ結べる長さにはなっていないので、油でぴしっと髪を撫でつけた。
「うん、これでいいかな? あとは……」
行灯の芯の燃えかすから、煤を取る。
小指で眉毛をなぞり、濃く、太く見えるようにした。
次にさらしと稽古着を用意する。
稽古着の肩の部分には、割いたさらしを縫い付け少しでもガタイが良く見えるようにした。
(うん、この方が蒼井直清に似てるな)
トラックに跳ねられた後、意識の底でぼんやり見た蒼井直清。
はっきり覚えていないが、何もしないときより彼に近づいた気がする。
さらしをきつく巻き始めたとき、
「あおい君、入るよ」
「えっ、ちょっと待って――」
――からっ
藤堂が部屋に入ると同時に、葵はふすまへ背を向けた。咄嗟に掴んだ着流し一枚を、肩からかけ、身体を丸めて息を止める。
さらしはまだ巻いている途中だった。
「あ、着替えてた?」
「は、はい……」
震える指で襟を掴み、身体を隠すように左右を前で重ね合わせた。
藤堂は気にしていないようで、中へ足を踏み入れる。
「まだ大部屋に、あおい君の荷物残ってたんだよ」
「置いておいて、もらえ……ますか……」
喉がからからに乾き、心臓が喉まで跳ね上がる。脇や額から、冷や汗がだらだら出ていた。
(こっち来ないで……!)
足音が一歩ずつ近づいてくる。
藤堂の手が背後から、葵の肩に触れた。
「あおい君……」
藤堂がごくっと喉を鳴らす音がして、葵はぎゅっと目を瞑る。
胸の前で握りしめていた手。その両肘を上へ上げて構える。
息を止め、左へ上半身をひねって力を溜める。
(藤堂さん、ごめんなさい――)
次の瞬間、葵は藤堂のみぞおち目がけ、勢いよく肘を、右後ろに振り抜いた――
数分後、襖が再びがらがらっと開く。
葵が恐る恐る首だけ後ろへ向けると、沖田がいた。
「どういう状況……?」
沖田の目に映ったのは、身支度をすっかり整えた葵と、畳に倒れている藤堂。
「いててて……僕どうして……」
藤堂はみぞおちを押さえながら起き上がる。
「すみません、私の肘が当たってしまって」
何度も頭を下げる葵をぼうっと見て、藤堂はぶつぶつ呟く。
「あおい君に似た女の子が……夢か、夢だよな」
低く、怒ったような声が飛ぶ。
「藤堂、勝手に俺の部屋入らないで」
なんで?と不思議な顔をする藤堂に、沖田はわずかに間を置いて答える。
「……今、極秘の任務頼まれてるから。急に入られると困る」
脱力していた葵は、沖田へ向けて声をかける。
「その任務って……同じ部屋で、私お邪魔になりませんか?」
沖田は手を差し伸べながら、葵にだけ聞こえるように声の調子を落とした。
「ああ、まだ頼まれてないから」
(……?)
「ほら行こう」
手を取ると、ふわっと甘松の香りがした。自分の髪かと思ったが、沖田から香っているのだとわかって、鼻の奥がくすぐったくなった。
稽古場に入ると、一人の男が、手入れしている槍から顔を上げた。
「お、あおいちゃん」
(ちゃん付け……誰?)
沖田が、葵が記憶を失っていることを話すと、彼は改めて自己紹介を始める。
「俺は原田左之助! 左之でいいぜ」
声が大きくて、びりびり身体に響く。
(原田左之助さんは確か、槍の名手で……)
原田は武士との口論中に「切腹の作法も知らぬ下男」と馬鹿にされ、
「腹の切り方くらい知ってんだよ!!」と実際に腹を切った。
――と、後世の逸話に残っている。
(本当なら中々ぶっ飛んでるよね……それから、女好きなんだっけ……?)
わずかに警戒心を強める。
すると原田は遅れて、ん? と首をひねり、葵にゆっくり近づいてきた。
何を言われるかと身構える。
「なんか……また可愛くなってんじゃねえか? なあ沖田」
沖田はうーんと言いながら、さりげなく葵の前へ立った。
「ほら、手合わせしたらどうですか? 二人、まだなんでしょう?」
葵はほっとしつつ竹刀を手に取る。
左之助はそれを取り上げた。
「竹刀なんて玩具なんかやめて、これでどうよ」
渡されたのは木刀……いや、指が回りきらないほど太い、丸太のようなものだった。
(重……)
「江戸の試衛館じゃ、俺たちゃこれを使って打ち合ったんだぜ?」
「左之さんは、正式には試衛館の門下生じゃないですけどね」
沖田が付け加える。
彼らは最初から京都にいたのではなかった。
もともとは江戸にいて、徳川将軍が京都に来るときの護衛として京都へ来たのだ。
(志一つで京都まで来るんだから、すごいよね……)
「あおいちゃんも江戸の武士なんだろ?」
「ええ……下級武士の出ですけど」
そう、他の隊士から聞いていた。
自信なげな葵の声を聞き、沖田は真剣な顔になった。
「ここでは下級も上級もありはしないよ。必要なのは剣と志だけだ」
葵は不覚にもどきっとした。
身分が物を言うこの時代において、この公平な考えが出来る沖田に、尊敬の気持ちが湧き上がる。
「ありがとうございます。精進します!」
素直に頭を下げる葵の手から、沖田は木刀を取った。
「いきなりこの木刀は、普通の剣士には重いでしょう。左之さん、今日は竹刀で」
原田がにやりと笑った。
「なんだよ沖田、ずいぶん甘いなぁ?」
「そうですか? じゃあ、あおいさんが可愛いから、私もやられてるのかもしれません」
さらりと甘い声で言う沖田。
(かわいいって……いや、からかわれてるんだって)
にこにこしている沖田から、顔を背ける。
原田は竹刀を渡してきた。
「じゃあ今日は竹刀で許してやるよ。やろうぜ」
一通り動き終えると、葵はふうっと汗をぬぐう。
「すっげー、やるじゃん。こりゃ並の隊士は敵わねぇな」
原田は大きく笑いながら背中をバンと叩くので、よろけそうになった。
それにしても、やはり剣を取ると、葵の身体は勝手に動く。
組紐を通して、蒼井直清の力が伝わってきているのだろう。身のこなしの素早さと、細やかな技術が光る。
(けど、ここで生きていくならまだまだ足りない)
見つめた手のひらを強く握ると、原田が肩に腕を回してきた。
「んじゃ、飯の前に風呂行こーぜ。一汗流したいよなっ!」
葵は石のように固まった――もちろん、一緒に入るわけにはいかない。
一瞬、原田が怪訝な顔をした。
「初日も一緒に入った仲じゃねえか」
(ええっ、そうなの!?)
沖田の柔らかい声がした。
「左之さん、あおいさんは新入りなんでね、やることがいろいろある。朝から汗を流している暇はないんですよ」
「あぁ? ま、いいか。確かあおいちゃん、火傷の跡があるとかで、二日目から一人で入ってたもんな」
沖田がふっと笑った気がした。
(私が傷があるって言ったから、助けてくれた? って思うのは自意識過剰?)
それにしても、男として生きていくのは想像以上に大変だ。
葵は竹刀を片付けながら、ここを抜けて町娘として生きる未来はないのかと思案していた。
大きく成し遂げたものはなくとも、ゆったりした時のなかで、小さな幸せを噛みしめる。そんな人生――
思い直してかぶりを振る。
(……新選組は規則で、脱退することは許されてなかったはず。やっぱりここにいるしかないんだ……)
よほど思い詰めた顔をしていたのか、沖田に優しく肩を叩かれた。
「気分悪い?」
「いえ……」
「わかった! 腹減ったんだろ!」
原田が笑い飛ばす。
葵も苦笑いを浮かべながらも、胸の奥で小さく息を吐いた。
沖田の視線が、ほんの少しだけ優しく自分を見つめていることに気づき、葵は視線を伏せ、冷たい板敷きの床を見つめた。




