415組紐の秘密
――葵さん
(誰……?)
――佳代です
佳代は葵の前世である、蒼井直清の恋人だった。彼女は直清に裏切られ失意の中、刀に倒れ、炎に焼かれた。
――火事の炎に呼び覚まされたの
葵の中は罪悪感と、直清の本当の気持ちを知らせなければと焦燥感に駆られる。
語りかけようとすると、佳代が遮った。
――葵さんと直清さんは、別の人。……あなたを巻き込んでごめんなさい。どうか、元いた場所に還って。
(……現代に帰れるの?)
――今あなたの運命は、再び死に引き寄せられている。私の煉火が消えないうちなら、きっとあなたを還してあげられる。
帰れる。
それは、この幕末に来てから何度か願ったことだった。
だけど。
(私はまだ帰れない……)
――なぜ? この機を逃せばいつになるか分からない。今死んでしまったら、あちらの身体だって保障はないわ。
(直清さんの仇討ちのこともあるけど、私は――)
言葉が続く前に佳代が、優しく声を掛ける。
――彼を遺していかれないのね
(彼……?)
一人の笑顔がぼんやり浮かぶ。
――葵さん……この組紐が切れれば、この時代の人の記憶から、あなたは消え去るの。
葵は愕然とした。
今自分がしていることは全て無意味なのか。
――あなたがしたことだけは残るわ。誰がしたことか分からないままに。
(じゃあ、私が今している感染予防や、巡察を代わったことによる、彼の肉体の負荷軽減の効果は残るの……?)
――ええ。だけど、あなたと未来に関するものは消える。
(未来のことを言付けたり、記録に残しても駄目ということ? 誰かに手紙に書いてもらっても……?)
――同じよ。全て消えるわ。ただ、例外があるとするなら……
佳代の気配が薄くなった。
――彼が来るわ
それを最期に声も気配も失くなる。
感覚が戻らない。
もう熱さが分からないはずなのに、身体が焼き尽くされていくようだった。
◆
沖田は、礼相撲を早々に引き上げて、漆黒の京都の町を廻っていた。
芹沢の挑発が不安を煽り、相撲どころではなかった。
葵の、あの自罰的な正義感が重なると、とんでもない事件が起こるのではないかと。
土方には笑われたが、杞憂で済むならそれでいいと、振り切ってきた。
丸太町通りに戻ったとき、北から騒ぎが聞こえ、角を曲がった沖田は血の気が引いた。
目に飛び込んだのは闇夜の中、煌々と燃える大和屋と、向かいの屋根の上にいる芹沢。
隊士に助けられたという子供を抱き、泣き崩れる女が「まだ、中に一人いる」と言ったとき、
沖田はひとっ飛びで下屋根に駆け登っていた。
熱い風が身体へ吹き付けるが、恐怖も熱さも感じない。
あるとすれば、大切なものを失うかもしれないという突き刺すような焦燥感だけ。
窓を打ち破って中に飛び込んだ。
(無事でいてくれ――)
倒れている人影を見つけて駆け寄った。
葵だとわかり安堵すると、急に熱と煙が沖田の肺を満たした。
思わず咳き込むが、自分にかまう暇はない。
葵がこれ以上煙を吸わないように、彼女の口元を袖で覆う。
ゆっくり抱きかかえて窓から降りると、わっと歓声と拍手で人波が湧く。
向かいの屋根の上へ目を凝らすと、まだ芹沢がいた。
後ろから月光が差している。顔に薄ら笑いが浮かんでいるのが分かる。
(今は優先すべきことがある……)
沖田は斬りかかりたくなる衝動を、やっと抑えた。
踵を返し、慎重に地面に葵を横たえる。
「葵――」
震える手で、彼女の手首の脈をとる。
わずかに乱れているが、指の腹に血の流れる感覚が伝わった。
――生きている
膝裏と背に手を入れ、身体を持ち上げる。
重さを、ぬくもりを、実感として得たかった。
だけど腕に感じるのは、抱いた躰の柔らさ。それがただ、あるだけだった。
沖田はふっと笑んで、腕の中の壊れ物を揺らさぬように、闇が薄らいでいく道を急いだ。




