412火種
今のところ、屯所に結核は広がっていないようだった。
宮野を見てくれた医者は、幸い窓を開けることに賛成した。
『身体を冷やすのはいけないが、全て締め切って患者の心を暗くすることない』
そう言ってくれた。
度々宮野の部屋に行っていた葵。
今日も、いつもの癖で木桶に手ぬぐいや水差しを乗せてから、はっと気づく。
「……もう必要ないんだった」
部屋に入ると、ちょうど藤堂が出るところだった。
「あおい君、ご苦労さま。今日で宮野も最後だ……」
葵は静かに頷いて部屋に入った。
すぐ正面に宮野がいて、深々と葵に三つ指をついた。
「あおいさん、世話になったね」
彼は、遠い血縁の者がいる故郷へ帰ることになった。
「さっき、土方さんや沖田さんにも挨拶を終えてね。皆良くしてくれたが、あおいさんには感謝してもしきれないよ」
「私は何も……」
唇を噛み俯く葵に、宮野はのびのびと言った。
「変わらず接してくれたよ。それだけで救われるもんだ」
そう言って彼は少しの荷物を持って部屋を出た。
葵は一人残され、綺麗に片付いた和室をぼんやり見た。
(私が宮野さんに変わらずにできたのは……きっとBCGを打ってたのと、空気感染が危ないって知ってたからだ……)
葵も結核にかからないという保証はない。
だが、無防備なものとの差は大きい。
現代の日本で緊急事態宣言を引き起こしたコロナ。
初めの頃は予防接種や特効薬はおろか、治療法さえわからなかった。
学校でも、少し咳き込むと過敏にみんなが反応した。
(私が幕末の人間だったら、宮野さんに同じようにできたのかな……)
きっと出来なかっただろうと自覚して、自分がひどい人間に思えた。
葵にできるのは、これから先の宮野の人生が、少しでも穏やかであれと願うだけなのだ。
(結局、治してあげることもできない。もっと出来ることがあったかもしれない……)
組紐が右手首で揺れる。
鮮やかな朱色が、宮野を蝕んだ喀血の色と重なり、そっと指で触れた。
直清(前世)に言われ、仇討ちは棚上げ中の葵。
――自分はなんのためにここにいるのだろう
視界に靄がかかったようになった。
不意に後ろで音がした。
「おい、行くぞ」
がさついた低い声。
芹沢だ。
結核を恐れないように見える葵を、露骨に避ける者もいる。
そんな中芹沢は、葵への態度を変えない一人だった。
『労咳なんて天命に任せるしかない』というのが彼の持論だ。
今日は芹沢と飲みに行く約束をした、礼相撲の日だった。
せっかちに風を切る背中についていくと、だんだら羽織姿の集団へ出くわす。
礼相撲に行く、近藤派の隊士たちだ。
頭一つ抜けた沖田の姿も見えた。
彼は芹沢を見ると、牽制するように葵のそばに寄った。
沖田と同じかそれ以上に背のある芹沢は、蛇のごとく目を細める。
「ふん、正装でご苦労なこったな」
沖田も普段の柔らかな表情を崩す。
まるで剣で対峙するときのような目をしていた。
「ええ、芹沢さんもお気をつけて。うちのあおいは飲み慣れてないので、無理させないでくださいね」
通り過ぎざま、芹沢は沖田にだけ聞こえるように声をひそめた。
「懐刀は、身につけていなけりゃ意味がないぞ」
勢いよく沖田が振り返る。
すでに先を行く芹沢は葵を連れて、ひらひらと肩上で手を振っていた。
「総司」
土方が沖田の肩を叩く。
「心配しすぎだ。今日の礼相撲は芹沢が力士と乱闘した尻ぬぐいだぞ。さすがに大人しくするだろう」
「……そうだといいのですが」
葵の立ち姿がどうにも頼りなくて、沖田は、追いかけていきたくなる気持ちを抑え屯所を出た。




