閑話_ある日の稽古②
不意に、鋭く低い声がした。
「代われ」
「斎藤さん……」
退こうとする葵に斎藤は首を振り、沖田に向けてしっしっと手を払った。
葵は斎藤を見上げる。
「私とですか?」
「そうだ」
藤堂が沖田に話しかける。
「うわ、斎藤とか。大丈夫かなあおい君……」
沖田は面の紐を緩めると、黙って壁にもたれた。
斎藤は左手に剣を持ち、低い位置にゆらりと構えている。
葵も構えを取り、目を逸らさぬまま思案する。
(斎藤さんは、片手突きが得意なんだっけ……)
リーチがある斎藤に、まともに間合いに入っていくわけにはいかない。ならば、片手突きを交わした後の左腕を叩けば――
斎藤の左手がわずかに動いた。
――来る
葵は一歩横へ跳ぶ。
斎藤の切っ先が、空を裂いて通り過ぎた。
(よし、交わせた!)
「あおい君すごい!」
藤堂が手を握り締めた、
瞬間
間合いが詰まる。
「遅い」
振り上がった竹刀が、葵の頭上にためらいなく振り下ろされた。
衝撃と共に視界が白く弾け、葵の身体は、うつ伏せに倒れ込む。
さらなる踏み込みに床が揺れた。
「斎藤!」
沖田の声が聞こえた。
葵が頭を押さえながら顔だけ上げると、
目に入ったのは、斎藤の竹刀を素手で止めている沖田だった。
「勝負はついてる。これ以上はやりすぎだろう」
「ふん」
鼻を鳴らし、斎藤は竹刀を沖田へ押し付ける。
「ではお前が代われ」
「やだ」
斎藤の眉間に深くしわが寄り、すぐに無表情に戻る。
「ぬるい」
「なにが」
「あおいに対する剣だ。なぜお前はあの突きを打たない」
三段突きのことだ。目にも止まらぬ早さで三度の突きを繰り出す沖田の得意技。
決められると、相手はわけもわからない内に、一瞬で勝負がつくという。
(そういえば、打たれたことない……)
沖田は斎藤を無視して、葵に手を差し伸べる。
「平気?」
「はい」
藤堂が、まぁまぁと斎藤の前に出る。
「嫉妬も度が過ぎると……」
斎藤の目が一層迫力を増す。
「なんだと?」
「だから、沖田があおい君にかかりきりなのが面白くないんだろ?」
「貴様……」
葵は沖田の手を取らず、自分で立ち上がった。
「沖田さん、三段突きを見せてくれませんか?」
沖田は驚いた顔をした後、にこっと笑った。
いつもの悪戯っぽい雰囲気とは少し違っている。
「……本当に、見たい?」
声が低い。
稽古場の空気が一気に張りつめる。
葵はごくりと喉を鳴らした。
「はい。……お願いします」
沖田は小さく息を吐いて、ふっと笑った。
「じゃあ……行くよ」
彼はゆっくりと平正眼に構え直す。
葵も構えを取った。
「――」
一歩。踏み込みに、世界が崩れたように感じた。
三つの衝撃が、ほとんど同時に葵の意識を貫いた。
右頬。
左肩。
そして最後の突き――喉元、手前でぴたりと止まる。
風圧だけで、葵の前髪が大きく揺れた。
目が沖田の剣先に釘付けになる。
彼はゆっくりと竹刀を引いた。
「終わり」
声はいつも通り軽い。
その軽さが逆に恐ろしかった。
葵は膝を震わせながら、なんとか立っていた。
「……今、何本入ったんですか?」
沖田は首を傾げて微笑む。
「入ってないよ」
「……」
確かに、肌に触れた感触はなかった。
だが、あの速さ、正確さ。
もし沖田が「当てる」つもりだったら、
これが竹刀でなく、刀だったら――
斎藤が、ぽつりと呟く。
「……多少は本気を見せたか」
沖田は肩をすくめて、竹刀をくるりと回した。
「ただの見本だよ。ちょっと派手にやってみただけ。あおいさんのお願いだから」
そう言って、沖田は葵に片目で目配せをした。
いつものからかう仕草だ。
「どう? 満足した?」
葵は俯いたまま肩をわななかせていたが、ぱっと顔を上げた。
「踏み込みの音一回だけでしたよね!? 顔、肩、喉への突きが……本当に一瞬でしたっ!」
ぴくっと斎藤の眉が上がる。
「あいつ、"見えて"いるのか」
藤堂が腕組みして頷く。
「じゃなきゃ、斎藤の突きも避けられないよね。僕なんか昨日やられたとこまだ腫れてるよ……」
頬を紅潮させる葵に、沖田の目が優しく細まる。
「次は、あおいさんが当ててみてよ」
竹刀を置き場へ戻すと、彼は稽古場の出口の方へ歩き出す。
「今日はここまで。みんな、片付けよろしく」
隊士たちが慌てて動き出す中、
葵はまだその場に立ち尽くしていた。
(いつか、私も――)
仇の片桐左京を捕らえるためにも。そして沖田の負担を減らすためにも。
葵は片付けの輪に走っていった。




