悲睡蓮後編(2)
見続けるのが憂鬱になった私は、彼女に父の事を訊ねた。
「三年前に私の父も、此処に来たと思うの。少し高齢で心臓の病を患っていた。穏やかで読書が趣味の優しい人だったわ」
此処が現実ならば、父の写真を見せられた。
だがそれが叶わない以上、言葉を搔き集めるしかない。
歯痒い気持ちで問う私に、彼女は意味深な薄笑みを浮かべた。
「前に話したように、此処に来る為には縁が必要なんだ。君の場合は君の父なのだろう」
涼しい顔で池の中心を眺める彼女の声音に、私は無意識に息を吞む。
「縁とは繋がり。糸のようなものだ。確かに私は君の父を知っているのだろう」
淡々と発する彼女の声は、確信とは言えない何処か頼りないものだった。
訝しむ私の表情に、彼女は苦笑を浮かべ首を小さく横に振る。
「君の父は緑色の、この悲睡蓮を知っていたのだろう。ならば此処に来た事があるはずだ。此処に来たのならば、私とも必ず会っている。だが、此処には多くのものが来る。君の父との記憶が埋もれてしまうのも致し方ない事なんだよ」
困ったように話す彼女の言葉は、当然だと思った。
日に何度も人と関わり、各々の出来事を思い出せと言われても、直ぐに答えられるほど人の記憶とは単純ではない。
興味深いものは明確に、無関心のものは殆ど薄れてしまうのだ。
彼女の話が事実ならば、此処には多くのものが訪れるのだろう。
ならば三年前に会ったものを明確に思い出せというのは、無理難題に等しい。
だが、それでも私には此処しかないのだ。
「なんでもいいの。父が此処で何を見て何を思ったのか。貴女と何を話したのか。ほんの少しでもいいから、思い出して」
追い詰められた声と、迷子の子供が誰かに縋るような表情を浮かべる私に、彼女も一呼吸置いてから口を開いた。
「もう時間が無いな。分かった。次に君が来るまでに、出来る限り思い出しておくよ。その時、改めて君の父の事を話そう」
そう告げる彼女を含めた景色が、白い薄霧に包まれていく。
「必ず、必ず来るわ。だからその時は…」
霧の中で私の懸命に強く発した声は、彼女に届いたのだろうか。
ただ一つ分かった事は、霧に消える彼女が微笑んでいた事だけだった。
※※※
身体が酷く熱い。
気怠く重い身体と、寝汗による不快感。
「っ…ぁ…喉が」
声は荒れ擦れて、焼け付くような痛みを感じる。
時刻は早朝の五時過ぎ。
このまま再び眠りたい思いが過る。
こんな時、母が居てくれたら看病を頼めるのに。
しかし、それを思っても仕方がない。
ベットに手を着き、どうにか身体を起こす。
起きた瞬間、頭の奥に鈍い痛みを感じた。
(これ、明日までに治るの?)
今から病院に行くべきか。
いや、鈍くとも身体は動き、意識も確りしているのだ。
幸い風邪薬はまだ残っており、ゼリーもスポーツ飲料もある。
(もう一晩だけ)
まだ病院に行く程ではないと判断した私は、部屋着を片手に部屋を出た。
部屋を出て階段へと向かう途中。何かの気配を感じたが、振り向いた先にあったのは書斎のドアが一つ。
今この家に居るのは私だけである。
玄関には鍵を掛けているのだから、誰も入りようがない。
体力の落ちた重い身体をゆっくりと動かして、私は一階のリビングへと向かう。
リビングのソファに怠い身を預け、冷えたスポーツ飲料を喉に流し込む。
喉の渇きと焼けるような体の熱が癒されて、安堵の吐息が零れた。
体温計の数値は三十九度二分。
自宅療養の範囲内ではある。
明日も高熱が続いていたら、その時は体調の悪さを母に伝えて、一人で帰って来てもらうしかない。
何よりも、今自宅を離れたら、夢の中の彼女と会えなくなるような気がした。
彼女は父の事を知っていると言っていた。
きっと私や母が知らない父の事を、彼女は知っているのだろう。
病で寝たきりになった頃の父の事も、彼女は知っているのかもしれない。
(行こう)
額に冷却シートを貼り、半分ほど残った飲みかけのスポーツ飲料のボトルを片手に、私はソファから起きて立ち上がる。
父の思いを知れないままは嫌だ。
不安定な足取りに、呆けていく思考。それを堪えながら二階の私室に辿り着くと、糸が千切れたように私はベットに倒れる。
傍らには投げ出された液晶の暗いスマホと、スポーツ飲料のボトルが転がっているのが見えた。
鈍く響く頭痛と重い瞼に抗う事もせず、私は眠りに沈んだ。




