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悲睡蓮《ヒスイレン》  作者: 白楼雪


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9/12

悲睡蓮後編(2)

見続けるのが憂鬱になった私は、彼女に父の事を訊ねた。


「三年前に私の父も、此処に来たと思うの。少し高齢で心臓の病を患っていた。穏やかで読書が趣味の優しい人だったわ」


此処が現実ならば、父の写真を見せられた。


だがそれが叶わない以上、言葉を搔き集めるしかない。


歯痒い気持ちで問う私に、彼女は意味深な薄笑みを浮かべた。


「前に話したように、此処に来る為には縁が必要なんだ。君の場合は君の父なのだろう」


涼しい顔で池の中心を眺める彼女の声音に、私は無意識に息を吞む。


「縁とは繋がり。糸のようなものだ。確かに私は君の父を知っているのだろう」


淡々と発する彼女の声は、確信とは言えない何処か頼りないものだった。


訝しむ私の表情に、彼女は苦笑を浮かべ首を小さく横に振る。


「君の父は緑色の、この悲睡蓮を知っていたのだろう。ならば此処に来た事があるはずだ。此処に来たのならば、私とも必ず会っている。だが、此処には多くのものが来る。君の父との記憶が埋もれてしまうのも致し方ない事なんだよ」


困ったように話す彼女の言葉は、当然だと思った。


日に何度も人と関わり、各々の出来事を思い出せと言われても、直ぐに答えられるほど人の記憶とは単純ではない。


興味深いものは明確に、無関心のものは殆ど薄れてしまうのだ。


彼女の話が事実ならば、此処には多くのものが訪れるのだろう。


ならば三年前に会ったものを明確に思い出せというのは、無理難題に等しい。


だが、それでも私には此処しかないのだ。


「なんでもいいの。父が此処で何を見て何を思ったのか。貴女と何を話したのか。ほんの少しでもいいから、思い出して」


追い詰められた声と、迷子の子供が誰かに縋るような表情を浮かべる私に、彼女も一呼吸置いてから口を開いた。


「もう時間が無いな。分かった。次に君が来るまでに、出来る限り思い出しておくよ。その時、改めて君の父の事を話そう」


そう告げる彼女を含めた景色が、白い薄霧に包まれていく。


「必ず、必ず来るわ。だからその時は…」


霧の中で私の懸命に強く発した声は、彼女に届いたのだろうか。


ただ一つ分かった事は、霧に消える彼女が微笑んでいた事だけだった。


 ※※※


身体が酷く熱い。


気怠く重い身体と、寝汗による不快感。


「っ…ぁ…喉が」


声は荒れかすれて、焼け付くような痛みを感じる。


時刻は早朝の五時過ぎ。


このまま再び眠りたい思いが過る。


こんな時、母が居てくれたら看病を頼めるのに。


しかし、それを思っても仕方がない。


ベットに手を着き、どうにか身体を起こす。


起きた瞬間、頭の奥に鈍い痛みを感じた。


(これ、明日までに治るの?)


今から病院に行くべきか。


いや、鈍くとも身体は動き、意識も確りしているのだ。


さいわい風邪薬はまだ残っており、ゼリーもスポーツ飲料もある。


(もう一晩だけ)


まだ病院に行く程ではないと判断した私は、部屋着を片手に部屋を出た。


部屋を出て階段へと向かう途中。何かの気配を感じたが、振り向いた先にあったのは書斎のドアが一つ。


今この家に居るのは私だけである。


玄関には鍵を掛けているのだから、誰も入りようがない。


体力の落ちた重い身体をゆっくりと動かして、私は一階のリビングへと向かう。


リビングのソファに怠い身を預け、冷えたスポーツ飲料を喉に流し込む。


喉の渇きと焼けるような体の熱が癒されて、安堵の吐息が零れた。


体温計の数値は三十九度二分。


自宅療養の範囲内ではある。


明日も高熱が続いていたら、その時は体調の悪さを母に伝えて、一人で帰って来てもらうしかない。


何よりも、今自宅を離れたら、夢の中の彼女と会えなくなるような気がした。


彼女は父の事を知っていると言っていた。


きっと私や母が知らない父の事を、彼女は知っているのだろう。


病で寝たきりになった頃の父の事も、彼女は知っているのかもしれない。


(行こう)


額に冷却シートを貼り、半分ほど残った飲みかけのスポーツ飲料のボトルを片手に、私はソファから起きて立ち上がる。


父の思いを知れないままは嫌だ。


不安定な足取りに、呆けていく思考。それを堪えながら二階の私室に辿り着くと、糸が千切れたように私はベットに倒れる。


傍らには投げ出された液晶の暗いスマホと、スポーツ飲料のボトルが転がっているのが見えた。


鈍く響く頭痛と重い瞼に抗う事もせず、私は眠りに沈んだ。


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