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悲睡蓮《ヒスイレン》  作者: 白楼雪


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翡翠蓮後編(3)


 ※※※


あれ程重かった身体も、頭に響いていた鈍痛も、草木の生い茂るこの森に立つと、苦痛が澄み渡るように無くなっていく。


きっとこの世界に居る事で、現実にある苦痛が薄れるのだろう。


夢の中では痛みを感じないと聞いた事があるが、この感覚は本当にそれだけなのだろうか。


「早く行かなきゃ」


池に寄り添う彼女は、父の事を知っていると話していた。


次に私が来る時までには、思い出しておくと言っていたのだ。


私と父を繋ぐのは、もう此処しか残っていない。


父が悲睡蓮を見て、何を感じたのか。


父は最後に何を考えていたのか。


三年という時間が過ぎて、記憶は砂のように散っていく。


数年後の私は、父の声を忘れているかもしれない。


手のひらから零れ落ちて消える記憶は、替えの利かないものである。


時間に抗えない事も理解している。


私の中に無い父を知る事で、消える記憶の時間に抗いたいと願うのは、悪足掻き以外の何物でもないのだろう。


確りと地を踏み、病が抜けた身体で歩調を速めていく。


青々とした木々の森を駆け抜け、広い芝生を更に急ぐ。


微風と青草の匂いの中。懸命に駆けてきた私に、池の端で佇む白いワンピースの彼女が困ったような薄笑みを浮かべていた。


「そんなに急がなくても大丈夫なのに」


そう苦笑する彼女に、私は真剣な表情で向き直る。


「父の事を教えて。父は悲睡蓮を見て、何を感じていたの?」


荒れた呼吸を整えながら問う私に、彼女は頷き距離を詰めてきた。


「君の父である彼も、ある日ふらりと此処に来た。何処どこかで翡翠蓮と縁があったんだろうね。初めて見た彼は、この池に咲く悲睡蓮を見て、時が止まったように驚いていたよ」


私を通して遠い過去を眺めているのか。


彼女の視線から目が離せず、私は静かに言葉を待った。


「彼は此処に来た頃に、既に心臓の病を患って、余命について戸惑っていた」


父が戸惑っていた。


私や母の前では落ち着いて受け入れていたのに、彼女には不安を吐露していたのだろうか。


「確か余命数年と言っていた。近くも遠くも無い終わりは、きっと不安で孤独なものだろう」


瞳を伏せる彼女の表情は、今は居ない父を憐れんでいる様に見えた。


確かに父の寿命はもう少し長いはずだった。


だが病の進行は思った以上に早く、一年と少しで父は無くなったのだ。


「彼の命が消えるのは、随分と早かった?」


憐みの向こうで薄く笑みを浮かべる彼女の言葉に、私は小さく頷いた。


医者に告げられた寿命より、短く散った父の命。


確かにその事は不思議だった。


その疑問に答えるように、彼女は池の端に横座りをして、私を見上げた。


「此処は居心地が良いだろう?現世の苦痛は此処に無い。不安も疲労も感じず、何も恐れなくていい。そういう場所だけれど、此処と現世を通い歩くのには対価がいるんだよ」


池の端に座る彼女が水面に手のひらを重ねると、池の底から薄緑色の小さな明かりが集まっていく。


「対価は生気。生命そのもの。此処に通う者は皆、生気を対価に此処に来るんだ。それは君の父も、そして君自身も差し出している」


彼女の手のひらに小さな緑色の光球が一つ重なっていく。


悲睡蓮と同じ、翡翠色の柔らかな光が、ふわりと彼女の手に収まり揺れていた。


悲睡蓮は此処に来たものの記憶。此処に来る対価は生命。


命はいつか亡くなるものだ。


その一部を払い続ければ、何時かは限界が来るだろう。


「それなら、私も何時か此処に来れなくなるのかしら」


悲睡蓮の事も父の事も、そして此処に住む彼女の事も、未だに知らない事ばかりだ。


けれど、時間は有限である。


戸惑う私に、彼女は小さく首を横に振る。


「確かに、現世から此処に通う事は限りがある。けれど、此処の時間は無限なんだ.」


そう話しながら彼女は水面から手を離す。


手が離れた事で、緑の光球はしゃぼん玉のように弾けて、すっと水面に溶けて消えた。


「君の父と同じく、君が望むならずっと此処に居ればいい。君が望めば叶う事だ」


再び立ち上がり対面する彼女の言葉に、私は漸く意味を理解した。


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