翡翠蓮後編(4)
生命には限りがあり、此処は夢だが夢では無い。
彼の世を見た事は無いが、此処はそれに近いのだろう。
此処が彼の世ならば、彼女の言葉の意味も父の短命も腑に落ちる。
「父は此処を選んだのね。私や母よりも、この世界を」
家族を愛していた父は、最後に家族を捨てて此処を選んだ。
物心つく頃から楽しい事も、苦しい事も共に家族で乗り越えてきた。
それは嘘だったのかと思うと、私の身体から力が抜けそうになった。
父が病を患った後も、母と私は寄り添い支えていたというのに、何が悪かったのだろう。
悲しみが心に滲み俯く私に、彼女の言葉が冷たく響く。
「仕方ないよ。何故なら彼は生きる事も、支える事にも疲れ切っていたからね」
当然の様に告げる彼女は、更に言葉を続けた。
「現世って楽しい?此処よりも素敵な所?生きるために苦痛を堪えて、悲しみや恐怖に襲われる。絶望して、孤独や不安を懐く。そうして生きる事って此処より良いのかな」
穏やかな表情と淡々とした彼女の声が、私の心に少しずつ冷たく沁み込んでいく。
「彼は、病が身体を蝕む事を恐れていたよ。だが、君達が不安そうにするから、恐怖や治療の苦痛を溢す事も出来ず、この先出来ない事が増えて、緩やかに朽ちていく事が堪えられないと言っていた。彼が君達を捨てたというならば、先に彼の心を捨てたのは君達だろう」
私の心の隙間に、彼女の声が黒く滲み沁みてくる。
命に関わる、蝕む程の病を宣告されて、恐怖や不安を感じない者などいるわけがないのだ。
苦痛を伴う治療に、穏やかな心で立ち向かう事など出来ないだろう。
そんな事は分かり切っていたはずなのに、私も母も父の穏やかで冷静な姿に甘えて見えていなかった。
父が言わなかったのではない。私達が言わせなかったのだ。
誰にも言えずに苦しんでいた父を本当に支えていたのは、この世界と彼女だったのかもしれない。
現世に希望を持てなかった父が、悲睡蓮に魅入られたとしても、何ら不思議な事ではない。
沁み込んだ彼女の言葉に、私の心は染まり落ちていく。
「悲しい?悔しい?だが嘘偽りの無い事だ。彼は苦しんで、悲睡蓮の美しさに魅かれて、その命を対価に此処の世界を選んだんだ」
彼女は話しながら私との距離を詰め、私の背に触れる髪を撫でた。
何も考えられない。彼女の声だけが私の心に沁み込んで、包まれていくようだ。
「現世は辛い事ばかりだろう。戻っても君の大切な父はいない。苦しく不安な時間が続くだけの世界だ。いつか君も彼のように、病に伏してその命が終わる瞬間に怯える時が来る。そんな世界だ」
彼女の声が、私の思考を奪い何も考えられなくなる。
「ずっと此処に居ればいい。此処は空気も風も気持ちよくて、草木は美しく、空も青くて綺麗だ。君の知らない話も私がずっと語ってあげよう。退屈する事も孤独になる事も無い。何の不安も恐怖も無い。だから私を選んでくれ」
彼女の言葉はきっとその通りなのだろう。




