悲睡蓮後編(5)
此処は恐れるものが何も無く、私が受け入れるだけで、永遠に安らぎを得られる。
何も考えられず頷きかけたその時。心の奥底で一瞬、小さな白い光が散った気がした。
『君の人生は、君が決めなくてはいけないよ』
小さな火花のように灯った懐かしい父の言葉に、私は我に返る。
「だめ!」
何時の間にか柔らかく抱かれていた彼女を突き放して、私は強い意志を向けた。
「確かに、現実は辛くて苦しくて、悲しい事も嫌な事も溢れている。それに比べて此処は居心地が良くて、ずっと居られたらきっと幸せだと思うわ」
私は不安を振り切るように、精一杯の虚勢を見せる。
今は不安が溢れた心だが、虚勢で堪える事で、私は一人で立てる。
虚勢も続ければ、自信に繋がるのだ。
突き放された彼女が、静かに私の目を見つめていた。
「だけど現実の世界は、私の大切な場所なのよ。父と母が生まれて出会ったように、私も何時か素敵な人と寄り添い合える家庭を作りたい。現実の世界で多くの物事や者を知って、縁を結んで、そこにある小さな幸せを拾い集めて、苦しくて辛い時は集めた幸せに支えられてまた歩くの」
確かに私は、父の苦しみを知らなかった。
けれど、母と私と共に生きて、嬉しい時は共に笑い、悲しい時は悩みを打ち明けて家族で支え合った。
そんな日々が在ったのも事実なのだ。
父が母に出会い、恋をして共に生きたいと思った事も、私が生まれ育ち、悩んだ時に私の力になる言葉をくれた事も、本当の出来事だった。
だからこそ、悩む事も振り返る事も必要ない。
寂しそうな彼女が、薄く口を開く。
「それで良いの?君の知らない彼の話は、まだ沢山ある。この世界の事も私の事も知らないのだろう。知りたくはないのか?君が此処に残るなら全部教えてあげるよ」
あれ程強く毅然としていた彼女が、今は置いていかれる幼い子供のような表情をしている。
きっと此処で重ねられた記憶が彼女の唯一の武器であり、彼女にはそれ以外何もないのだ。
本当の彼女はとても寂しいのかもしれない。
確かに此処には多くのものが来る。
だがそれらは何時か現世に帰るか、池の底に沈んでしまうのだ。
どれ程縁を深めても、最後は彼女が一人残る。
世界はいつも残酷だ。
苦しみや悲しみ、不安は此処にも常に溢れている。
此処も現世も、根本的には変わらないのだ。
突き放してしまった彼女を、今度は私が抱きしめる。
「そうね、私は知らない事ばかり。だけど、誰もが多くを知るなんて難しい事なのよ。だから私は、私の記憶の中の父と悲睡蓮の世界。貴女の事を大切に信じて生きるの。いつか私も父のように亡くなる日が来る。けれど、その時まで多くを経験して生きたいの」
同じくらいの背丈。どこか似ている私達。
父の余命は限られていた。
そんな時、今の私と同じように彼女に縋られたら、父は何を思うだろうか。
現実の娘と彼女を重ねて、離れ難くなるだろう。
彼女の言う事が事実であっても、それはきっと私と母に互いの事を任せて、残り僅かな命を彼女に寄り添う事で使おうとしたのが理由の一つかもしれない。
悲睡蓮の管理人である、とても寂しがりな彼女のために。
「私は知らないけれど、きっと父は貴女に感謝していたと思うわ。私も貴女に出会えてよかった。忘れても忘れないから。だから貴女は一人じゃない。どうか寂しがらないで」
ゆっくりと彼女から離れると、彼女も諦めたように寂しく笑った。
「帰るんだね。私も貴女に会えてよかった」
彼女がそう言ったと同時に、辺りから白い霧が滲んでくる。
「さようなら、ありがとう」
そう告げた私の声は彼女に届いただろうか。
気が付けば、私は白い景色の中で意識が途切れていた。
※※※
目覚めると、いつもの私の部屋だった。
あれほど辛かった頭痛は治り、身体の怠さもあまり気にならない。
「戻って…来られたのね」
喉の痛みも少し緩和されており、傍らのスマホで時刻を見ると、夜中の二時過ぎだった。
ベットから身体を起こして温くなったスポーツ飲料を飲み、小さく息を吐く。
スマホには、昨日から母の通知がたくさん着ていた。
急いで休養していたと返信を送ると、私は私室を出る。
ちらりと書室のドアの方を見るが、何の気配も無かった。
リビングのソファで熱を計ると、驚いた事に体温は平熱になっており、あの場所に行く対価の高さに改めて恐ろしさを感じた。
「悲睡蓮」
私は何時まで覚えていられるだろうか。
あの世界と彼女の事を。
何時か忘れてしまう時が来ても、きっと私の生命は忘れない。
悲睡蓮の世界と私の生命は確かに結ばれていたのだから。




