悲睡蓮前編(7)
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気が付くと見慣れた森の中にいた。
昨夜の夢と同じような、そんな深い森だった。
多くの場合、睡眠時に見る夢の記憶は目が覚めた瞬間に忘れたり、数時間も過ぎたら朧気になるものだ。
だが、この森や池。水面に浮かぶ緑色の睡蓮の事は、何故か明確に覚えていた。
夕飯を終えて入浴を終えた後。淡い眠気を感じたのは覚えている。
呆けた思考では調べ物も進まないだろうと、早々に寝室のベッドに寝転んだのだ。
直ぐに眠りに落ちたのは、風邪と疲労感のせいだろうか。
何れにせよ、此処が昨夜と同じ夢の中である事は間違いなさそうだ。
現に服装も昨夜と同じ衣服を着ていて、黙々と歩き進むと森が開けて野原に辿り着いた。
昨夜と違ったのは、数分も掛からず野原に辿り着けた事だろうか。
空も変わらず青く清々しい。
心地良い微風を感じながら、私は焦る気持ちを抑えてゆっくりと緑色の睡蓮が咲く池へと近づく。
十数分程で一周出来そうな何の変哲もない池だが、そこに浮かんでいる花が異質だった。
「緑色の、睡蓮」
喉の奥から消えそうな細い声が零れる。
この目で見たのは昨夜が初めてだったのに、郷愁に触れたような声だった。
触れたい欲に駆られて指先が小さく動いたその時、私とは違う声が聞こえた。
「駄目だよ」
優しく清々しい女性の声に、私は我に返ると声の方へと振り向く。
私の立ち位置から十数歩先である左側の池の端に、腰の辺りまで綺麗に梳かれた濃い紫の髪。
柔らかそうな白い肌を包む、白いノースリーブの女性が、池の端で足を横に崩して座っていた。
訝しく見つめている私と目が合うと、女性は涼むように瞳を細めて微笑を浮かべた。
「触れたいのは分かるけど、君には無理だ」
楽しそうな声音の彼女に、私は疑問を重ねていく。
「此処は何処?私が見ている夢なの?あの緑色の睡蓮は、父が緑色の睡蓮という言葉を言っていたの。調べても分からなくて、そもそも貴女は」
会話が通じると思うと、私の中から濁流のように問いが溢れていく。
知りたいという感情だけが溢れる私を、彼女が静かに制してくれた。
「一つずつ答えるよ。だから君も座ると良い」
落ち着いた彼女の様子に、私も池の端で脚を横に崩して座る。
それと同時に彼女は口を開き始めた。
「此処は君の夢で有って、夢では無い。分かりやすく言うならば、此処に縁が有り強く望む者だけが、各々《おのおの》の夢を通して立ち入る事の出来る空間だな。父がと言ったね。ならばそれが縁になったのかもしれない」
流れるように答える彼女に、私は改めて問う。
「夢で有って夢では無い。つまり普通の夢じゃないのね。貴女は誰?貴女も夢を通して此処にいるの?」
朧の様な淡い理解しか出来ないが、聞きたい事は多い。
私の問いに彼女は首を小さく振り、再び答えてくれた。
「此処に来る人達は君と同じく夢を通して来る者だけど、私はそうじゃない。私は此処の悲睡蓮達と同じ、この空間と供に在るもの。この空間を整えて、君のような者達を迎え入れるものだよ」
そう告げる彼女は確かにどこか儚げで、現実離れした繊細な空気を感じた。
「ヒスイレン?翡翠色だから翡翠蓮?」
私は白いワンピースの彼女から、池に咲く緑色の睡蓮へと目を向ける。
透き通るような淡い緑は、確かに翡翠を薄く削って加工した美しさがある。
繊細で簡単に砕け散りそうな程の美しさだ。
「そういう意味に捉えられやすいけど、悲睡蓮は悲しいの悲と、睡蓮で悲睡蓮という名前なんだ」
再び私の心が睡蓮へと傾きかけた時、彼女は緑色の睡蓮、悲睡蓮の名を口にした。
翡翠蓮ならぬ悲睡蓮。
触れて、摘んで捕えたいと願いたくなるのに、何故そんなにも物悲しい名なのか。
「ねえ、悲睡蓮の由来とかあるの?あるなら教えて。私はずっとあの花の事を知りたくて」
私は彼女の方へと振り向き、強く問いを投げかけた。
だが次の瞬間、池と彼女は白い霧に包まれて、私の意識が途切れていった。




