悲睡蓮前編(5)
「此処は、この花は…っ」
急ぎ問いかけようとした瞬間、私の視界は懐かしい天井を捕えていた。
三年前に良く見ていた私の部屋の天井だ。
「あれは…」
寝起きで掠れた小声は、数多の疑問で途切れていく。
長年気に留めていた緑色の睡蓮。
数年振りの帰省と、父の言葉の意味を思い過ぎていたのだろうか。
朧げな夢の中で見た幾つもの睡蓮は、淡く透き通るような翡翠色で実に綺麗だった。
まるで薄い硝子で作られていたような。
「けほっ、ごほっ…はぁ…」
呆けた思考を叩き起こすかのように、喉から咳が込み上げてくる。
仕事の疲れか、帰省のストレスだろうか。
少し風邪が悪化したのかもしれない。
母の体調を重んじての帰省なのに、私自らがこれでは致し方ない。
スマホの時刻は朝の五時過ぎを示していた。
このまま二度寝をするのも悪くはないが、今日は母の病院に付き添わなくてはいけない。
ベッドから身を起こして、薄灰色のブラウスと深緑のフレアスカートを身に着けると、次に鏡の前で髪を丁寧に梳く。
今日も暑くなるのだろうか。
実家の薬箱に風邪薬と紙マスクが残っていれば良いが、無ければ途中で買わなければならない。
母の体調もそうだが、病院に付き添った結果、他の人達に風邪が感染したら申し訳無い。
念のため白のカーディガンを一枚片手に取り、私は一階へと静かに降りて行った。
※※※
トーストと温かいコーヒー。簡単なグリーンサラダという朝食を母と共に済ませて、私達はタクシーで病院へ向かった。
病院は父が通っていた所と同じ、市立病院である。
実家と駅の中間にあるこの病院は、医師や看護師の対応が良いと評判で、それは母も私も納得していた。
予め入院の予約はしていた為、受付を終えると直ぐに年配のふくよかな女性看護師が、母を迎えに来てくれた。
年配の看護師は人当たりが良く、少し緊張していた母の心も、病室への道中だけで大いに解れていく。
「娘さんも久しぶりね。お母さんの事は私達が確りサポートするから、貴女は自分の風邪を治す事に集中しなさい」
明るく笑う看護師に、私も苦笑を返す他無い。
案内された四人部屋の病室は、空きベッドが二つと、窓際に他の患者のベッドが一つ。
そして母のベッドは、それと対角線となる廊下近くに用意されていた。
「他に必要な物は無い?」
自宅から持ってきた荷物を整理しながら問う私に、母は途中の自販機で買ってきた冷たいスポーツドリンクを飲みながら微笑んだ。
「来る前に何度も確認したから大丈夫よ。何かあったら連絡するわ」
落ち着いた母の言葉に、私が確認を繰り返そうと薄く口を開く。
だが、それも母の言葉に止められてしまった。
「本当に大丈夫だから。私の事を思ってくれるなら、早く風邪を治しなさい」
そう止められては、私も返す言葉が無い。
「じゃあそろそろ帰るけど、困った事があったら何時でも連絡してね。そのために帰ってきたんだから」
心配な気持ちを心中に抑えて言う私に、母が帰路を促す。
「分かっているわよ。ほら、早く帰ってゆっくり休みなさい。私の退院日に貴女が風邪で入院になったら、それこそ笑えないわよ」
母の笑い交じりの言葉に私も苦笑を一つ浮かべると、病室を後にした。




