第8話「牢の中」
ハロルドの挑発的な視線にも、女――イオは眉一つ動かさなかった。 張り詰めた沈黙が場を支配する。メリッサが葡萄を持つ手を止めるほどに。
やがて、イオはふっと口元を緩めた。その笑みは、田舎娘の純朴さとは程遠い、どこか底知れない冷たさを帯びていた。
「そうですね。教団、帝国、魔の森。呼び名は何であれ、この先の道が過酷であることに変わりはありません」
彼女は窓の外、暴風雨に煙る森の闇を見つめる。
「ここだけの話――面白い昔話があるんです。聞かれますか?」
拒否する間も与えず、彼女は語り始めた。その声は雨音に溶け込み、奇妙な引力で聞く者を引き込んだ。
「太古の昔、この星の礎となった神『アーガディア』は、愛する者を独占するために、強大な魔術で彼女を縛りつけました。やがて彼女は命を落とし、空に浮かぶ『月』となり……怒りに燃える彼女の本当の伴侶が『太陽』となった」
イオの瞳が、暖炉の炎を映して揺らめく。
「愛を奪った罪により、アーガディアは天罰を受けました。その身は引き裂かれ、千年を超えてなお膿を流し続けている。その膿こそが、あなた方が使う魔力の正体だと言われています」
ハロルドが眉をひそめる
「魔力は、神の呪いが生み出した汚物だと?」
「ええ。だからこそ、魔力に近づきすぎた者は、呪いを受ける。魔の森は、その膿が最も濃く溜まる場所。あそこへ踏み込めば、人は人でいられなくなる」
イオは、脅すように声を低くした。
「亡霊、怪物、異形。運良く生きて帰った者も、皆、何かに魅入られ、正気を失ってしまう。それでも、行かれますか?」
その言葉には、明確な「警告」が含まれていた。ここから先へ進むな、と。
「へえ、怖い怖い」
突如、しゃがれた声が割って入る。
振り返ると、いつの間にか部屋の隅に、よぼよぼの老人が立っていた。深い皺に埋もれた目は、開いているのかも判然としない。
「口で言っても分からんよ、イオ。こやつらの目は死んでおらん。地獄を見ると決めた目じゃ」
「おじいちゃん! 勝手に入ってきちゃだめでしょ!」
イオが慌てて駆け寄るが、老人は杖で床を突いた。
「来い。お前たちがこれから踏み込む地獄の、成れ果てを見せてやる」
老人の纏う空気は、ただの村人とは思えない異様な迫力を放っていた。ラインツファルトたちは顔を見合わせ、無言で立ち上がった。
暴風雨の中、老人に連れられてたどり着いたのは、村はずれにある石造りの座敷牢だった。窓には鉄格子がはめられ、中からは生暖かい風と共に、鼻をつく腐臭が漏れ出している。
「ここは魔に飲まれた者たちの収容所じゃ」
老人が重厚な鉄扉の鍵を開ける。錆びついた金属音が闇夜に響き、扉がゆっくりと開いた。
松明を掲げたイオが、不安げに中を照らす。
光が差し込んだ瞬間、暗闇の奥から何かが這い出してきた。
それは、人の形をした「泥」のようだった。痩せ細った体、溶け落ちたような肌、白濁した瞳。生気を失ったその存在は、光を求める蛾のように、地面を這いずりながらラインツファルトたちの足元へ手を伸ばす。
「あ……う……」
言葉にならない呻き声。 特務部隊の四人は息を呑み、動くことすらできなかった。
特務部隊の四人は息を呑み、動くことすらできなかった。
「悪いが、戻っておれ」
老人が無造作に手を振る。それだけで魔法陣が空中に描かれ、衝撃波がそれを牢の奥へと押し戻した。 無詠唱。しかも、杖すら使わない高度な魔術制御だ。ラインツファルトは老人を凝視する。ただの案内人ではない。
「……これは、一体?」
「魔に呑まれた者の成れ果てじゃ」
老人は牢の鍵を閉めながら、淡々と告げる。
「心だけでなく、体まで魔力という毒に侵されるとこうなる。アンデッドですらない。あれはただの、生きた残骸じゃ」
牢の奥では、複数の「残骸」がもつれ合い、汚物にまみれて蠢いている。メリッサが口元を押さえ、顔を背けた。
「ああなるくらいだったら、死んだほうがマシだわ……」
メリッサのかすれた声が震える。
「魔の森に入れば、お前たちもこうなるかもしれんぞ」
老人の言葉が、冷たい雨と共に突き刺さる。
ラインツファルトは、鉄格子の向こうの地獄を見つめた。これが、帝国の足元に広がる現実。アリオストが泉を使って生み出そうとしている世界の一部なのか。
ふと、松明の明かりが牢の奥の壁を照らし出した。 そこには、正気を失う前の誰かが爪で刻んだのであろう、無数の傷跡が残っている。
いや、ただの傷ではない。それは執拗に、祈るように、ある一つの紋様を繰り返し描いていた。
(……あれは)
ラインツファルトの背筋が凍る。壁一面に刻まれていたのは、花の絵。
剣のように鋭い葉を持つ、グラジオラスの花。
彼はハッと息をのみ、隣に立つイオを見た。揺れる炎に照らされた彼女の耳元で、同じ形をした耳飾りが、冷ややかに輝いていた。




