第9話「グスタフ」
ラインツファルトの視線は、イオの耳元――グラジオラスの耳飾りから、ハロルドが指差した壁面へと移る。そこには、狂気が爪で刻んだ無数の花があった。
「あの印……帝国の国花、グラジオラスの紋章ですよね? 教団のシンボルだ」
ハロルドの声に、老人が重苦しく頷く。
「元々ここにあったレリーフではない。ここに囚われていた誰かが、祈るように刻み続けたものじゃろう」
湿った空気の中、イオが口を開く。その表情からは、先ほどの底知れない冷たさは消え、憂いを帯びたものに戻っていた。
「魔の森の瘴気にあてられた人は、肉体が変質し、寿命という理から外れることがあると聞きます。もしかするとこの中には、王国が成立する以前……古代グラジオラス帝国の時代から、死ねずにいる者もいるのかもしれません」
「なるほど。古代史を研究する人間として、話ができるならぜひ聞いてみたいね……」
ハロルドは自嘲気味に肩をすくめた。 鉄格子の奥からは、言葉にならない呻き声と、腐った果実のような臭気が漂ってくるだけだ。理性のある生存者など、望むべくもなかった。
――ズリ、と、濡れた雑巾を引きずるような音がして、ラインツファルトは足を止めた。
牢の隅、汚泥の中で何かが蠢いている。それは、人の形を保っていなかった。溶けた蝋のように崩れた肉の塊。そこから無秩序に生えた奇妙な長さの手足。
だが、ラインツファルトの肌が粟立った。
(なんだ、この魔力は……?)
アンデッドは生者の魔力に引かれる習性がある。だが、目の前のそれは違う。
だらりと伸びた腕が、見えない剣を握るように持ち上がる。重心が、肉塊の中心へと沈み込む。
その所作。その呼吸のタイミング。
ラインツファルトは無意識に鉄格子を掴み、引き剥がすように扉を開けていた。汚泥を踏みしめ、一直線にその塊へと歩み寄る。
「ラ、ラインツファルト! 毒があるかもしれないわ!」
メリッサの鋭い制止も、今の彼には届かない。彼は膝をつき、目の前で痙攣する肉塊を覗き込んだ。無秩序に配置された目や鼻。もはや個人の特定など不可能なほど崩れている。だが、ラインツファルトは確信していた。
その肉塊が纏う、焦げ付くような熱気。そして何より、この異形になってもなお失われていない、洗練された「剣気」。
「……先生、なのか?」
震える声で問いかける。 肉塊がビクリと反応した。 濁った緑色の瞳が、ぎょろりとラインツファルトを捉える。
「あ、ぅ……ァ……!」
肉塊が裂け、口とおぼしき穴から、紅蓮の炎が漏れ出した。ゴオォッ! 高熱がラインツファルトの頬を焼く。
「くっ……!」
反射的に腕で防ぐが、その熱さにこそ、記憶の鍵があった。ただの火ではない。自身の魂を燃料にして燃え上がる、魔術剣特有の残り香。
「間違いない……。この魔力の波長」
ハロルドたちが駆け寄ってくる。
「どうしたんすか? 見覚えがあるんすか?」
「……ああ。かつて森へ調査に行ったきり、消息を絶った私の剣術の師だ」
「剣術の……師?」イオが息を呑む。「まさか、王国の至宝と謳われた『剣聖』グスタフ・ガープ様……ですか? こ、こんな姿になってもまだ……」
「死ねなかったんだ」
ラインツファルトは、苦渋に満ちた瞳で、かつての師を見つめた。その脳裏に、鮮やかな記憶が蘇る。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
九十年前、まだ世の中に電灯の影も形もなかったころのこと。
宮殿の白亜の回廊を、一人の男が歩いていた。長身躯にまとった純白の軍服。歩くたびに揺れるマントは、彼が背負う責任の重さを示しているようだった。
「騎士だんちょー!」
弾むような声と共に、小さなつむじ風が男の足に激突する。幼き日のレティシアだ。
「おっと、敵襲かと思えば、可愛いお姫様か」
近衛騎士団長グスタフ・ベネットは、厳つい顔をくしゃりと崩し、少女を軽々と抱き上げた。
「レティシアちゃんはかわいいでちゅね~! うーヨシヨシ!」
グスタフは膝を折り、少女の髪を無造作にぐしゃぐしゃと撫で回す。
「ぎゃはは! きもいー!」
無邪気な笑い声が庭園に響く。その光景を柱の影から見ていた青年時代のラインツファルトは、呆れ半分、尊敬半分でため息をついた。
そのやりとりを間近で見ていた青年、ラインツファルトは、思わず苦笑を漏らす。
「いつ見ても、先生が嫌われているんじゃないかと心配になりますよ。お久しぶりです、ベネット近衛騎士団長。半年ぶりでしょうか?」
グスタフは胸を張り、にやりと笑った。
「ああ、久しぶりだな。しかし、お前も随分と口が達者になったじゃないか、ラインツファルト。この私が嫌われるはずがないだろう? 何しろグスタフ・ベネット近衛騎士団長だぞ?」
「だといいんですが」
ラインツファルトはくすくすと笑い、軽く肩をすくめる。
グスタフは腕を組み、じっと彼を見つめた。グスタフの瞳から、ふと柔和な色が消えた。
「……腕は、鈍っていないだろうな?」
空気が変わる。次の瞬間、グスタフの腰の剣が閃いた。挨拶代わりの一撃。ラインツファルトは反射的に自身の剣を抜き、金属音と共にそれを受け止める。
「合格だ」
「いきなり過ぎますよ、団長!」
二人は流れるように庭園の中央へと移動し、剣を交え始めた。魔術全盛のこの時代において、剣術は「古い技術」と軽視されがちだ。だが、グスタフの剣は違う。
「魔術が存在する状況において、剣術の優位性は何だったか、覚えているか?」
グスタフは矢継ぎ早に連撃を繰り出しながら問いかける。
「はい。相手に思考の隙を与えない、反射的な攻撃が行えることです!」
ラインツファルトは冷静に応じ、すべての斬撃を受け流してみせる。
この世界において魔術は万能だ。攻撃にも、防御にも、そして日常生活においても幅広く活用できる。しかし――剣術は違う。剣の腕を極めるには、生まれ持った才覚が必要だ。努力だけでは到達できない領域が、そこにはある。
そして今、ラインツファルトはその才を証明していた。
グスタフは満足げに笑みを浮かべ、後方へ跳ぶ。
「悪くない。では、魔術剣の腕も見せてもらおうか」
彼はおもむろに剣を掲げた。
その刃が、熱を帯びる。
魔術剣――剣に付与された魔術の力は、刃を熱や冷気で包み込み、切れ味を鋭くし、質量すらも変化させる。鍛え抜かれた剣士同士の戦いで、魔術を纏った一撃は致命傷となり得る。
グスタフは一切の躊躇もなく剣を振りかざした。
ラインツファルトはその動きを正確に見極め、最小限の動きでかわす。無駄のない防御――まさにグスタフから学んだ技だった。
魔術剣の攻撃は、刃がかすっただけで深い傷を負う。ゆえに剣を巧みに使い、魔術の効果ごと打ち消しながら防ぐ必要があった。
グスタフは力を込めた重い一撃を叩き込んだが、ラインツファルトはそれすらも見事に受け流す。
そして、反撃に転じる。その剣先は、グスタフをわずかにとらえた、が、手ごたえはなかった。
グスタフはいたって冷静に数歩飛びのく。ラインツファルトの剣先は、わずかに軍服をかすめただけだった。
「……悪くない。受け流しの技術だけなら、私を超えたかもしれんな」
グスタフは息一つ切らさず、剣を鞘に納める。そして、木陰のベンチへと腰を下ろした。
「座れ。少し話がある」
隣に座ったラインツファルトは、師の横顔が急に老け込んだように見えた。
二人は並んで腰を下ろした。
「私がいつまでもその座に居座っていれば、後進の成長を妨げることになる。それに、私にはやらねばならないことがある」
彼の視線は遠く、庭園の片隅を遊び回るレティシアへと向けられていた。少女は無邪気に花を摘み、風に舞うそれを楽しげに追いかけている。
「あとを託したぞ、ラインツファルト。もしもの時が来たら――騎士団のことを頼む。そして、王と、あの子のことも」
ラインツファルトは眉をひそめた。
「神妙な物言いですね。何かあったのですか」
グスタフは静かに息を吐いた。




