第19話「アーガディア機関」
「この本は――『アーガディア書』だ」
シュテュンプケの声が、音を吸うような静謐のなかで響いた。
「アーガディア書? なんですか、それは」
まさか、封印されていた間にできたもの、というわけでもないだろう。そもそも魔の森はもちろん、グレンツェ川西岸の事情など、当時でさえ何もわかってはいなかった。
シュテュンプケはサラサラの髪を揺らして語る。
「周囲の書棚にある本も含めて、ここにはこの世界で起こった、ありとあらゆる出来事が記されている。過去の事象はもちろん、未来に至るまでも、だ。つまり……世界そのものの記憶と予言の書庫だよ」
シュテュンプケの口調は平坦だった。だがそこに滲んでいたのは、静かな確信。それがただの信仰や伝承ではなく、厳然たる“事実”であるということを疑わせない響きだった。
ラインツファルトが、引き寄せられるようにして祭壇のような台座に歩み寄る。
開かれた一ページに視線を落とし、そして、眉をひそめた。
「……空白だ」
彼は困惑したように言った。
「ページに何も書かれてない」
だが――
「ふふん、それが重要なんだよ」
待ってましたとでも言うように、シュテュンプケの口元がゆっくりと吊り上がる。
彼の目がわずかに細まり、そこに宿ったのは企みにも似た光だった。
「本来なら、この部屋にある“自律筆記機械”が、絶えず未来を記述し続けるはずだった。だが王国が滅亡するのと前後して、その機械は突如、沈黙した」
シュテュンプケの声は、どこか過去の傷をなぞるように重かった。
だがその奥に、微かな期待の光が宿っているのをラインツファルトは見逃さなかった。
「だから私は考えたんだ。王国の滅亡を知ってるあんたらなら、何か知ってるんじゃないかってな」
ラインツファルトは横に立つハルトマンを盗み見る。
彼女が“レティシア”の複製体であるのなら、あるいはその記憶の断片を持っている可能性がある。だが、当の本人はかつて「再現は不完全」と自嘲気味に語っていた。
となれば、頼れるのは自分の記憶だけ。
だが――いくら思い出の迷宮を辿っても、霧が晴れることはなかった。
アリオストならば何かを知っていただろうか?
自分のように作られた存在でなければ、アーガディア機関が止まった理由に思い当たる節もあっただろうか?
だがそんなことは、考えるだけむなしい。そう思いなおして、ラインツファルトは開かれた本に近づき、静かにそのページを繰った。
前のページまでは文字が書かれている。が、そこで活動を停止したのか、それ以降のページはまっさらな白紙になっていた。
「この書庫に納められている記録は、確認されている限り――約一万年前、古代グラジオラス帝国の建国時代から始まっている。そして予言の終わりは、今日から一か月後までだ」
「……一か月後、ですか?」
ラインツファルトがぽつりとつぶやいた。
「意外と、終わりが近いんですね」
「これだけの本がありながら、大して先まで予言してるわけではないんだな」
と、続けたのはハルトマン。彼女の視線が、アーチ状の天井に向けられる。
そこには壮麗なフレスコ画が描かれ、天井のすぐ下まで本棚がぎっしりと並んでいた。まるで知の聖域が、静かに息を潜めているようだった。
シュテュンプケが頷く。
「ふふ。そうだな。百年前、この筆記機械は最後の一行を記して沈黙した。だが、その時点で書かれていた未来ーー百年分ーーすべてが、誤差一つなく現実になったんだ。その書き溜めた分がいよいよなくなろうとしているんだ」
ラインツファルトは、本に書かれた最後の一文を読んだ。
いわく。
「『グラジオラスが降りてくる』? なんだ、これ」
「意味は、私にも分からん。だから、お前たちなら何か知っているのではないかと思ったが……どうやら空振りだったな」
肩をすくめながらも、シュテュンプケの口元は笑っていた。
「ま、いいさ。後で思い出すこともあるかもしれねえし、写しをとっておいてやるよ。それはそれとして――お前たちはここで、数日過ごすことになる。焦らず、せかせかせず……せいぜい、この終わりかけた世界を楽しんでいくといいさ」
その夜、宿のバルコニーから吹き抜ける風が、魔の森の梢をかすかに揺らしていた。
ラインツファルトは静かに欄干にもたれ、遠く闇に沈む森を眺めていた。
「……調子はどうした?」
背後からかけられた声に、彼はゆるく振り向いた。
ハルトマンだった。月明かりの下で、彼女の瞳が冷静に彼を見つめていた。
「いつも通りですよ」
「嘘を言え。レギーナとの戦い以来顔が青白い。あの時、何かあったのか? ……いや、あえて詮索するわけではないが」
ハルトマンはそれ以上は詮索しないというように、指先で自分の髪をくるくると弄びながら、視線をそらした。
いまさら隠しても意味がないーーラインツファルトは小さく息を吐いた。
「マルティウス……あの男の一撃を受けてから、魔力が少しずつ抜けていく感覚があります。おそらく、もう長くは――」
「なっ……!」
ハルトマンが思わず一歩前に出た。
その声には、彼女らしからぬ動揺が滲んでいた。
「大丈夫なのか、それ……本当に」
「気合いでなんとかしますよ」
「気合いで治るような症状じゃないだろう、それは」
「しょうがねーから私が何とかしてやるよ」
その時、不意に背後から別の声が割って入った。
少し気の抜けた、けれど妙に頼りがいのある声ーーシュテュンプケだった。
「シュテュンプケさん……そこまでしていただかなくても」
「そうも言ってらんないだろ。魔術を解くのに金がかかるわけでもねえし。ま、この魔術は、ちょっとあれだけどな……」
シュテュンプケは苦笑を浮かべ、肩をすくめる。
その顔には、明確な「厄介ごとだ」という色があった。
実質的に一万年以上の時を越えて生きている彼をして、そう言わせる魔術――
古代帝国の“再興”を標榜する現在の帝国が、いかに魔術体系の根幹に精通しているかを思い知らされる。
彼らは、単なる模倣ではない。失われた叡智を、自らの手で再構築しているのだ。
いずれ敵として対峙しなければならないことを思うと、ラインツファルトは今から気が重くなった。
シュテュンプケは彼をベッドに横たえると、その胸元にそっと手をかざした。
空中に浮かび上がった指先の軌跡が、魔力の痕跡として空間に残り、それがやがて複雑な魔方陣を描き出す。
「まったく、正統派の連中はこういう小手先だけは器用だな……グノーシス派には私一人しか継承者がいないってのに」
苦々しげに呟きながらも、手際は流麗だった。
淡く輝く魔方陣が、ラインツファルトと彼自身を淡く包み込んだ瞬間――
ずしりと重く沈んでいたラインツファルトの体から、突如として痛みが抜けていった。
深い息をひとつ。まるで肺の奥にたまっていた澱が消えていくかのような感覚。
さすが、古今の魔術体系に通じているというだけはある。これが本物の大魔法使い、というものか。
治療を終えたシュテュンプケは、表情を引き締めたまま二人に向き直った。
「ーーいいか、これから帝国と正面からぶつかることになる。だが無茶だけはするな。あいつらは、ただ突っ込めば勝てるような相手じゃない。アリオストの奴だって……」
その語調には、まるで過去の亡霊を振り払うような重さが滲んでいた。そこには、長い時の中で蓄積された後悔と、今なお拭いきれない何かがあった。
だが、次の瞬間。彼の口元にふいに不敵な笑みが浮かぶ。
「ーーさて、そんなあんたらに朗報だ。アリオストを“ころっと”殺せる、とっておきの方法がある。……聞きたいか?」
「なっ……そんな方法があるのか!?」
「……!」
思わず声を上げたのはラインツファルトだった。
ハルトマンも、言葉には出さなかったが、視線に明らかな動揺と興味が混ざっていた。
完全に信じきったわけではない。だが。
ここは魔の森、常識の境界が薄れる場所。
そんな“奇跡”のひとつやふたつが転がっていても、おかしくはない。
二人は知らず知らずのうちに、息を呑んでいた。




