第15話「大魔法使い」
レギーナは拳を止めた。血に濡れた手のひらを見つめ、しばらく呆けたように動かなかった。
ラインツファルトの顔は腫れあがり、唇の裂け目から血泡が音を立てて弾けている。瞼の奥に微かに残る光だけが、彼の生を示していた。
「ふふ……まだ生きてますね。やっぱり、あなたは特別です」
レギーナは穏やかな笑みを浮かべ、血まみれの手をそっと唇に当てた。満足しているのか、その表情は曖昧だった。
ラインツファルトは痛みが響く中で、小さく息を吐いた。
そのときだった。木陰から何かがキラリと光り、一直線に飛んでくる。それはレギーナの首筋に突き刺さり、彼女の身体がふっと力を失い、崩れるように昏倒した。
「お前、見てらんねえよ。どうして抵抗しないんだ?」
現れたのは、おかっぱ頭に珍妙な帽子をかぶり、濃い灰色のローブをまとった少年だった。ラインツファルトにとって、見も知らぬ人物。だが、どうやら味方をしてくれるようだ。
ラインツファルトは何か答えようとしたが、血を吐き、苦しげにむせた。
「おいおい、無理すんなって。ちょっと見せてみろ」
少年はレギーナの体をどけ、ラインツファルトの傷を確かめる。
「……へぇ、驚いたな。もう結構治ってるじゃないか。回復力への自信があって黙って殴られてたってわけか。それにしても、あそこまで殴られることはないと思うけどな」
そう言うと、少年は静かに魔力を送り込み、彼の傷を癒やしはじめた。温かな光が、血の匂いに染まった空気を薄めていく。
魔力の回復とともに、ラインツファルトはようやく体を動かせるようになった。回復に魔力を使い、力を使い果たしていたのだ。
「すまない。この恩は必ず返す」
「まあそれはいいけどさ。あんた、覚悟が決まってなかったんだろ? それでレギーナに、本気を出せなかった」
「覚悟? ……どうしてそう思う」
問いかけるラインツファルトに、少年は肩をすくめる。
「やらなきゃいけないと思ってても、必要以上に人を傷つけられないってとこだろ? 人の心を読むのだって不可能じゃないんだ。私は伝説の大魔法使い、シュテュンプケ様なんだぜ。これくらいはお手のものだよ」
その直後だった。
「──危ない!」
ラインツファルトの叫びが空気を裂く。
シュテュンプケの背後から、闇のような魔手が音もなく伸びる。鋭く尖ったその先端が、彼の後頭部へ寸前まで迫った。
しかし──
「おお、活きがいいな」
まるで遊びでもするように、シュテュンプケは身じろぎもせず右手を差し出す。伸びた魔手を指先でつまみ、するすると手繰り寄せて器用に結び目を作った。するとその魔手は力を失ってばらばらと消え去ってしまった。
レギーナの顔が歪む。焦りの色を隠せず、すぐさま次の一撃を放つ。
「のけ者のくせに、こざかしいですよッ!」
放たれた魔術の奔流が、光の線となってシュテュンプケに襲いかかるが、彼の周囲に漂う無数の結界に触れた瞬間、糸くずのように解け、力を失って宙を舞った。
シュテュンプケは穏やかに目を細める。
「私はね、“のけ者”って立場、結構気に入ってるんだよ」
彼の周囲に、無数の魔法陣が次々と浮かび上がる。シュテュンプケはそのただ中でゆっくりと回り、にやりと微笑んだ。
「逃げるなら、今のうちだぜ?」
「冗談!」
レギーナが吠え、地を蹴った。
──だが。
飛び込んだ刹那、光が彼女の四肢を縛る。シュテュンプケの魔術が、糸のように絡み、彼女の身体を空中で捕らえた。地に叩きつけるでもなく、そっと固定するように、動きを封じ込める。
決着が訪れるまで、わずか十秒足らずだった。
「ずるい、ずるい、ずるい、ずるい! 正々堂々戦いなさい!」
木に縛り付けられたレギーナが、じたばたと手足をばたつかせ、悔しげに声を上げる。
それを見下ろしながら、シュテュンプケは肩をすくめた。
「正々堂々って言われてもなあ。森の魔術は殺傷に長けてはいないんだ。戦うことしか考えてないお前らとは違うんだよ」
飄々としたその言葉に、レギーナは眉を寄せ、あからさまに不満そうな顔を見せる。
それを見ていたラインツファルトが、訝しげに問いかけた。
「森の魔術? 魔の森に人が住んでいるのですか?」
この森を支配するのは、呪いのような暴走する魔力の地脈だ。人が住めるはずもない、理不尽と狂気が支配する魔の領域。人がそこで生活しているなんて到底信じがたい。
だが、ラインツファルトの疑問に答えるよりも先に、レギーナが声を絞り出した。
「──そいつは、古代グラジオラス帝国の支配を拒んだ“恭順派”の末裔にして、二千年前の大魔法使いシュテュンプケの再現体、その最高傑作です。私たち教団に匹敵する歴史を持つと言われる魔術者集団の首領。その力は共和国よりもはるかに大きく、帝国最大の脅威といったところです」




