第13話「レギーナ」
音が死んだ。
鳥の声も、風のざわめきも、湿った土を踏みしめる音さえも。
世界が「警戒」のために呼吸を止めたかのような静寂。
魔の森の奥。蔦の絡まる古木の陰で、ラインツファルトとハルトマンは、闇と同化するように身を潜めていた。
「……来るぞ。距離、三十」
ハルトマンの囁きは、ラインツファルトの鼓膜へ直接届く。
敵の数は多くない。だが、その質が異常だった。
森の瘴気を、たった一人でねじ伏せて歩くような、圧倒的なプレッシャー。
「問題ありません」
ラインツファルトは短く応じ、重心を沈めた。
その瞬間。
――ヒュン。
風切り音すら置き去りにする速度で、「それ」は飛来した。
斬撃。
だが、ただの鎌風ではない。空間そのものを断ち切る、概念的な切断線。
「ッ!」
二人は反射的に左右へと跳んだ。
直後、彼らが隠れていた樹齢数百年の巨木が、音もなく上下にズレた。
ズズ……ンッ!!
重力が遅れて仕事をする。巨木が轟音と共に崩れ落ち、土煙が視界を白く染め上げた。
「ごきげんよう、ラインツファルトさん!」
土煙の向こうから、場違いに明るい声が響く。
晴れやかなソプラノ。舞踏会で愛しい人を見つけたような、華やいだ声色。
そこに立っていたのは、豪奢な深紅のドレスを纏った女――レギーナ・アウグスタだった。
泥濘の森にあって、そのドレスには泥一つ跳ねていない。彼女の周囲だけ、物理法則が書き換わっているかのように。
「姿を現してくださいな。……かくれんぼは、もう終わりでしょう?」
彼女は双剣を指揮棒のように振るった。
その瞳は、かつての「イオ」が見せた海のような青ではない。獲物を狙う爬虫類のごとき、鮮烈な翠。
「……チッ。挨拶代わりにしては、随分と派手だな」
ラインツファルトは姿を現し、剣を抜いた。
ハルトマンもまた、反対側から魔手を展開し、挟撃の体勢をとる。
「レギーナ。……いや、イオと言った方がいいか?」
「どちらでも構いませんわ。貴方様が呼んでくださるなら、私は何にでもなれますから」
レギーナは頬を染め、うっとりと身をよじった。
その姿に、ハルトマンが吐き捨てる。
「愛しいと言いながら、初手で首を飛ばそうとするのか? 歪んでいるな」
「愛とは、その人の『生』を実感すること。……そして、死の瞬間にこそ、命は最も輝くのです!」
論理の飛躍。
レギーナが地を蹴った。
ドレスの裾が翻る。それは優雅な舞踏のステップに見えて、実際には音速を超える突撃だった。
速い。
ハルトマンが迎撃の魔手を放つが、レギーナはそれを「視線」だけで切り伏せたかのように、最小限の動きで回避する。
懐に入り込む。双剣が閃く。
ガギィィィンッ!!
ラインツファルトが割り込み、火花が散った。
重い。細腕から繰り出されたとは思えない、岩石のような衝撃。
「あはっ! これです、この感触!」
鍔迫り合いの至近距離。レギーナの瞳孔が開く。
「貴方がアリオスト様より……『最強』より強いのかどうか。その体で確かめさせてください!」
彼女の左手が霞む。
隠し持っていた短剣による、死角からの刺突。
ラインツファルトは首を捻り、紙一重でかわすが、頬に赤い線が走る。
(……強い)
ラインツファルトは戦慄した。
魔術の出力ではない。戦闘技術の次元が違う。
彼女は、呼吸をするように殺し、瞬きをするように肉を削ぐ。
「隊長、連携を!」
「分かっている!」
ハルトマンが援護射撃を行う。漆黒の魔手が鞭のようにしなり、レギーナの死角を襲う。
だが、レギーナは背中に目があるかのようにそれを躱し、あろうことか、その魔手を足場にして宙へと跳んだ。
「邪魔です、泥棒猫」
空中からの急降下。
風属性の魔力を纏った踵落としが、ハルトマンの防壁を紙のように粉砕する。
「が、ぁっ……!?」
ハルトマンが毬のように吹き飛び、崖下の闇へと消えていく。
「隊長ッ!」
ラインツファルトが叫び、手を伸ばそうとした刹那。
世界が傾いた。
いや、違う。自分の視線が落ちたのだ。
「――よそ見はいけません」
耳元で、甘い囁き。
ラインツファルトは自分の左足を見た。
膝から下が、ない。
遅れてやってくる激痛。鮮血の噴水。
「ぐ、オオオオッ!?」
彼は無様に地面を転がった。
痛覚遮断が間に合わない。脳髄を焼くような信号が、思考を白く塗りつぶす。
「ふふ、ふふふ……。いい声。もっと聞かせてください」
レギーナは、切断した足をゴミのように蹴り捨て、ラインツファルトを見下ろした。
その背後には、孔雀の羽のように展開された無数の魔術剣。
逃げ場はない。
「くそ……ッ!」
ラインツファルトは残った右足で地を蹴り、這いずりながら距離を取ろうとする。
だが、レギーナは追わない。
ただ、指先を指揮者のように振っただけだ。
ドスッ。ドスッ。ドスッ。
魔術剣が、ラインツファルトの両手、そして残った右足を貫き、地面に縫い止めた。
「が、ぁ……ッ」
磔の状態。
ラインツファルトは大の字になって、泥に沈んだ。




