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第56話 仮面の下の毒と蜂蜜


 ガルディニア王国の馬車がヴァルハイト邸の敷地内へと滑り込み、ついにエミリア王女がその地を踏んだ。

歓迎の笑顔を振りまきながら用意された客室へと案内されたエミリアは、扉が閉まった瞬間にその無邪気な表情を消し、部屋の調度品へと鋭い視線を走らせる。


「……あら」


彼女の視線が、机に活けられた瑞々しい『白百合』の生花で留まった。

ふわりと漂う、清楚な百合の香り。しかし、エミリアはその奥に潜む、わずかに甘く重い芳香を嗅ぎつける。


(白百合の根元に……『月見草の香油』ね。私が夜中に抜け出すお転婆姫だと仮定して、服に匂いを移して追跡する算段かしら。ふふ、古典的だけど確実な罠だわ)


エミリアはあえてその百合に近づき、愛おしそうに指先で花弁を撫でてみせた。衣服の袖に、それと分からぬようにしっかりと香油を擦り付ける。


(いいわ、この『おもてなし』には乗ってあげる。……仕掛けた主の顔が見てみたいものね)



◇◇◇



夕食の席。

差し出された豪奢な料理の数々は、ガルディニアの第一王女派が好む濃い塩気をベースにしたものだった。エミリアはそれを「まぁ、帝国の味付けは新鮮ですわね」と無邪気に口に運ぶ。

だが、デザートとして運ばれてきた焼き菓子を一口含んだ瞬間、エミリアの喉が微かに震えた。


(──『蜂蜜』。それも、我が国の東部、ごく限られた領地でしか採れない最高級の野生蜜ね。私の真の嗜好まで突き止めているの? 素晴らしいわ、ヴァルハイト邸)


エミリアは瞳孔が開くのを自らの意志で徹底的に抑え込み、咀嚼の速度も完璧に偽装した。

給仕を行うメイドたちの視線が、自らの微細な変化をプロファイリングしようと注がれているのを肌で感じていたからだ。


影からその様子を観察していたメイド長のリサ・ローレンツは、手元の手帖に静かにペンを走らせる。


「(……信じられない。蜂蜜を口にした瞬間、心拍も、瞳孔も、咀嚼の速度も完全に『一律』を維持した。普通なら好物を前に一瞬の弛緩があるはず。──この姫、最初から我が方のプロファイリングを予測し、肉体の反応を『演技』で制御している……!)」


 広間の隅で控えるシエラもまた、エミリアが放つ「完璧すぎる淑女のオーラ」の裏にある狂気を感じ取り、冷や汗が背中を伝うのを止められずにいた。



◇◇◇



 公式謁見の前夜、ヴァルハイト邸のサロンにて、トアとエミリアの最初の「非公式」な対面が実現する。

車椅子に座る線の細い青年・トア・レンバートの背後には、一切の油断なく周囲を睨むアルテリゼが、影のように寄り添っている。

対するエミリアは、まだ「お転婆で可憐な第三王女」の仮面を崩さないまま、楽しげにサロンへと入ってきた。


「お初にお目にかかります、トア・レンバート様。国境でレオンハルト皇子からお噂はかねがね。こんなに若くて聡明そうな方が、帝国の頭脳としてお迎えしてくださるなんて光栄ですわ!」


エミリアはスカートの裾を持ち上げ、完璧なカーテシーを披露する。その瞬間、彼女の衣服から、昼間仕込まれた「月見草の香り」が微かにサロンの空気に混ざり合った。

トアは静かに微笑み、その香りを胸に吸い込む。


「歓迎いたします、エミリア殿下。我が邸の拙い『おもてなし』はいかがでしたでしょうか。お口に合うものがあれば幸いなのですが」


「ええ、とっても! 特にディナーのデザートに使われていた蜂蜜、あれは本当に絶品でしたわ。わたくし、お転婆なものですから、甘いものには目がなくて」


エミリアは悪戯っぽくウィンクしてみせる。私があなたの罠(蜂蜜)に気づいた上で、あえて楽しんでいるのよ、という無言の挑発だった。

しかし、トアの瞳は、その挑発を想定内だと告げるように凪いでいた。


「それは重畳。……ただ、野生の蜂蜜は栄養価が高い反面、過剰に摂取すると『喉の渇き』を覚えることがございます。今夜は特によく眠れるよう、枕元に月見草の香油を少々忍ばせておきました。夜中に喉が渇いてお部屋を出られる際も、その香りが殿下の足元を優しく照らしてくれるでしょう。」


トアの言葉に、エミリアの笑みが一瞬だけ完全に静止した。

トアは、エミリアが「香油の罠に気づいてあえて袖に付けた」ことまでを見越し、それを「夜中に抜け出す際の目印」として既に利用する網を張っていると突きつけたのだ。


(──この男、私の『気づいているという演技』のさらに上を行っている……!)


「ふふ……本当に、細やかなお気遣いですこと。」


「滅相もない。すべては平和の使者である殿下に、この帝都で『安全に』過ごしていただくためです。明日の公式謁見では、殿下の素晴らしい『ロマンスのお話』が聞けることを、心より楽しみにしておりますよ。」


 トアが静かに車椅子を回し、サロンを去っていく。

エミリアはその背中を見つめながら、扇で隠した口元を、ゾクゾクとするような歓喜の歪みへと変えていった。


「ねぇ、レイナード」


背後に控えていた補佐官に、エミリアは低く、冷徹な本来の声で囁く。


「……あの男よ。あの脳みそ、何が何でも我が国へ、いいえ、わたくしの手元へ手に入れるわ。明日の謁見、徹底的に揺さぶってあげましょう。」


レイナードは、すでにこの時点でエミリアの狂気と、

トアの底知れぬ怪物性に挟まれ、胃に鈍い痛みを覚え始めていた──。


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