第54話:歪な執着の始まり
国境の街アイゼンハイドの夜明けは、ひどく白んで見えた。
出発の準備を終えたガルディニア特使団の馬車が、宿舎の前に列をなして並んでいる。
「お転婆姫」としての衣装に身を包んだエミリアは、周囲の文官たちが荷物の積み込みに追われる声をBGM代わりに、馬車の陰で静かに佇んでいた。
その影に滑り込むようにして現れたのは、出発直前の最終確認に赴いたレオンハルトだった。
周囲からは、帝国軍の将軍が特使団の代表に儀礼的な挨拶を行っているようにしか見えない。
「──いよいよ帝都へ出発ね、レオンハルト。私の仕掛けたシナリオ通り、レイナードの調子を十分に狂わせてちょうだい?」
エミリアは、誰にも聞こえないほどの小声で冷徹に囁いた。その顔には、すでにいつもの笑顔が貼り付いているが、声だけは完全に氷のように冷たい。
「ああ。国境での引き渡し手続きは貴様の思惑通りに運ぶ。だが、エミリア……帝都ヴェルスーンへ向かう前に、一つだけ、お前に忠告しておくべき男がいる。」
レオンハルトの声音が、密会の時以上に重くなった。エミリアは微かに眉を動かす。
「忠告? 帝国の誇る『半竜』のグレン団長のことかしら? それとも、あの頑固な皇帝陛下?」
「違う。貴様がこれから滞在することになる、ヴァルハイト邸の主──トア・レンバートだ」
「トア……? ああ、あの噂のヴァルハイト公爵の婚約者?」
エミリアはくすくすと笑った。
彼女の情報網では、トアは「ただの公爵の婚約者」であり、今は屋敷の奥で静かに本を読んでいるだけの無害な青年という認識だった。
「彼の脳を、決して侮るな。」
レオンハルトは、エミリアのエメラルドグリーンの瞳をまっすぐに見据え、断言した。
「奴の病弱な身体に騙されるな。トア・レンバートの思考の深淵は、俺たちのような常人の尺度では測れない。……お前がどれほど完璧な『ピエロの仮面』を被ろうと、奴の前では一瞬でその本性を剥がされる。奴は、お前の隠された二面性も、姉を失脚させようという歪んだ策略も、そのすべてを最初から見抜いてくるぞ。」
「……私のすべてを、見抜く?」
エミリアの動きが、ぴたりと止まった。
レオンハルトは、彼女が「自分の本性が露見するリスク」に対して激しい警戒や恐怖を抱くもの、あるいは不快感を示すものだと思っていた。しかし、次の瞬間、エミリアの全身から立ち上ったのは、そのどちらでもなかった。
じわり、とエミリアの頬が赤く染まっていく。
ハイライトの消えていたはずの瞳に、見たこともないほどの、爛々とした「熱」が灯った。
「すべてを、剥ぎ取ってくれる……? そのトア・レンバートが、この私のゲームを、最初から全部見抜くというの……?」
エミリアの呼吸が、微かに荒くなる。
彼女の胸の奥で、ドクドクと不気味なほどの高鳴りが始まった。
生まれてから今まで、彼女の二面性を見抜けた人間は一人もいなかった。周囲にいるのは、お転婆な振る舞いに呆れる無能な文官たちか、あるいはその裏にある冷徹な政治家の顔に怯えるだけの駒に過ぎない。
エミリアにとって、世界はあまりにも退屈で、孤独な盤上でしかなかった。
だが、もし。もし本当に、自分のすべてを看破し、その張り巡らせた罠の裏の裏まで読み切る「理解者」がそこにいるのだとしたら──。
「ああ……。素敵。素敵だわ、レオンハルト……!」
エミリアは恍惚とした表情で、自身の細い指を口元に当てた。その瞳に宿る光は、恐怖を完全に通り越し、歪んだ歓喜と狂気的な期待へと変貌していた。
「私の目論見(姉の失脚)さえも、盤上で利用されるかもしれない?いいえ、それ以上に……私のこの退屈な仮面を、どんなに美しく壊してくれるのかしら。まだ見ぬトア……私の、愛しい『理解者』……」
それは、求愛にも似た、しかし致命的なまでの「歪な執着」の始まりだった。
警戒すべき敵ではなく、自分の人生を完璧に狂わせてくれるかもしれない、極上の玩具(あるいは神)を見つけたかのような、異常な独占欲が彼女の中で弾けた。
「……おい、エミリア。貴様、何を考えて──」
レオンハルトがその異様な気配に鳥肌を立て、一歩身を引こうとしたその瞬間。
「ええっ! レオンハルト様、本当ですの!? 帝都のヴァルハイト邸には、そんなに美味しいチョコレートの噴水がありますのねー! わぁ、早く行かなくっちゃ!」
エミリアは一瞬で表情をお転婆姫へと切り替え、大声で笑いながらレオンハルトの肩をばんばんと叩いた。その切り替えの早さに、レオンハルトはただ息を呑むことしかできない。
「皆様、ぐずぐずしないで! 帝都のロマンスとチョコレートが、このエミリアを待っていますわ! 出発よ、出発!」
ひらりとドレスの裾を翻し、エミリアは狂気的な執着を胸の奥深くに隠したまま、馬車へと軽快に駆け出していった。
動き出した馬車の窓から顔を出し、無邪気に手を振る王女の姿を見送りながら、レオンハルトは静かに背中の冷や汗を拭うのだった。




