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第52話:法規至上主義の猟犬・レイナード


 ガルディニア特使団が滞在するアイゼンハイドの高級宿舎。その一室で、レイナード・フォン・アイゼンバッハ補佐官は、卓上に広げられた膨大な書類の山を前に、恍惚とした笑みを浮かべていた。


「完璧だ……。これほど美しい布陣が、かつて外交史上に存在しただろうか。」


 眼鏡の奥の細い目をさらに細め、彼は自身の最高傑作である『帝国に対する賠償および主権侵害に関する異議申立書』の頁を愛おしそうに指でなぞった。

 レイナードは、ガルディニア王国第一王女セシリアに絶対の忠誠を誓う天才外交官である。

彼は徹底した法理主義者であり、あらゆる国際法、戦時条約、過去の判例を脳内に記憶していた。彼にとって世界とは、複雑な法条文という名の『糸』で編まれた織物であり、有能な操り人形師(外交官)さえいれば、大国すらも意のままに縛り上げることができる玩具に過ぎなかった。


「ノルトエンデの襲撃事件において、帝国軍は我が国の国境警備隊を『事前の通告なく』拘束した。これは大陸共同法第14条第3項における『過剰な自衛権の行使』に明確に該当する。さらに、彼らが主張する『テロリストの掃討』という大義名分も、共同捜査協定の瑕疵を突けば完全に無効化できる。」


レイナードは細い指で机を叩いた。

トントン、と規則正しい音が静かな部屋に響く。


「これで帝国は言い訳ができん。賠償金として、北海交易権の関税自主権の5年間一部譲渡、および国境沿いの未確定領域における共同採掘権の割譲を要求する。帝国がこれを拒めば、我が方は近隣諸国へこの事実を公表し、帝国の国際的信用を失墜させるだけだ。第一王女殿下も、この成果にはさぞご満足されることだろう。」


彼の頭の中では、すでに勝利のシナリオが完璧に完成していた。帝国から莫大な富と利権を毟り取り、その功績を引っ提げて本国へ帰還する。そうなれば、第一王女セシリアの次期王位継承の座は不動のものとなり、自分はその筆頭宰相としての地位を確固たるものにする。

そこへ、部屋の扉がノックもなしに勢いよく開け放たれた。


「レイナード! 大変よ! 帝国の宿舎の厨房に、とっても珍しい『黒トリュフのジャム』があるんですって! 明日の朝食のパンにたっぷり塗るように、特使団の権限で命令してきてちょうだい!」


 部屋に飛び込んできたのは、やはりというべきか、第三王女エミリアだった。彼女は手にしたロマンス小説を振り回しながら、レイナードの机の前に駆け寄ってくる。


「……エミリア殿下。私は今、国家の命運を賭けた極秘書類の最終チェックを行っているのです。ジャムの有無などという俗事のために、私の思考を遮らないでいただきたい。」


レイナードはあからさまに深いため息をつき、眼鏡を指で押し上げた。その目は、目の前の王女を完全に「無能な障害物」として見下していた。


「まぁ、冷たいのね! 政治の書類なんて、どうせ帝国に『ごめんなさい』って言わせるだけでしょ? そんなことより、私のロマンス小説の新作の方がずっと大事よ。見て、このプロット! 『捕らわれの姫君と、冷酷な帝国将軍の夜の調教』! これ、明日の交渉の場での挿話に使えないかしら?」


「使えるわけがないでしょうッ! 殿下は黙って、明日の席では私が用意した原稿通りに『おーほっほ』と笑って、最後に王家の印章を捺せば良いのです! 余計な口を出して、我が第一王女派……コホン、我が特使団の完璧なシナリオを汚さないでいただきたい!」


思わず本音が漏れかけたレイナードは、自身の非礼を隠すようにもう一度激しく机を叩いた。


「あら、そうなの? じゃあ、私は印鑑を押すだけの機械になればいいのね。つまらないわ。」


エミリアはぷっと頬を膨らませると、机の上に広げられていた書類の山を、わざとらしくその華奢な手で乱雑にかき回した。


「もう! そんなに硬い顔ばかりしていると、レイナードの奥さんも夜のベッドで逃げ出しちゃうわよ! ほら、このプロット本でも読んで、少しはロマンスの勉強をしなさい!」


エミリアは持っていた数枚の束をレイナードの書類の間に叩きつけるように置くと、つまらなそうに踵を返して部屋を出て行った。


「……ふん、全く救いようのない王女め。」


レイナードは忌々しげに彼女の背中を睨みつけると、乱された書類を再び綺麗に整え直した。彼が手元に引き寄せた『異議申立書』の最終頁には、確かにガルディニア王家の法理が完璧に記載されている。


レイナードの目には、その書類が「ガルディニアの圧倒的勝利」を約束する黄金の免罪符に見えていた。

しかし、彼は気づいていなかった。

エミリアが今しがた「乱雑にかき回した」際、彼の誇る完璧な条文の隙間に、国際法上の例外規定である『本国最高評議会への全面委任および差し戻し規定』のコードが、寸分の狂いもなく、他の条文の文脈に擬態する形で滑り込まされていたことに。


レイナードの天才的な法理の知識は、あまりにも「既存のルール」に忠実すぎた。だからこそ、ルールそのものを書き換えるエミリアの『悪魔的な悪戯』を、自身のプライドという盲目ゆえに見落としてしまったのだ。


「待っていろ、帝国め。法の檻が、貴様らを一歩ずつ締め上げる恐怖を教えてやる。」


 猟犬は、自分がすでに首輪を外され、飼い主の用意した檻へと自ら進んでいることすら知らずに、暗い夜に向かって静かに牙を剥いていた。


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