第51話 剥落する仮面、夜の密会
アイゼンハイドの夜は、凍てつくような静寂に支配されていた。
日中の喧騒が嘘のように静まり返った街の片隅。帝国側の監視の目を巧妙に潜り抜けた先にある、古びたレンガ造りの隠れ家──かつて交易商人の倉庫として使われていたその建物の地下室に、二つの影があった。
ガサリ、と厚手のマントが床に落とされる。
「──お疲れ様、レオンハルト。わざわざこんな薄汚れたネズミ小屋まで足を運ばせるなんて、帝国中央の警備も随分と焼きが回っているようね?」
鈴を転がすような、しかし日中のあの幼児的な高音とは明らかに違う、低く、冷徹な響きを帯びた声。
ランプの仄暗い光に照らされたエミリア・リガード・ガルディニアの顔からは、昼間のあの無邪気なお転婆姫の面影は完全に消失していた。
エメラルドグリーンの瞳からはハイライトが消え去り、そこにあるのは深淵のような虚無と、すべてを値踏みするような冷酷な知性だった。
「その言葉、そっくりそのままお返ししよう、エミリア王女。日中の『ピエロの誘惑』には、我が配下の若い兵も随分と肝を冷やしたようだ。」
影の中から進み出たのは、帝国軍の黒き軍服を纏った男──レオンハルトだった。彼は腰の長剣に手をかけたまま、一切の油断なくエミリアを見据えている。
「あら、あれはただの挨拶よ。それより、私がわざわざ退屈な茶番に付き合って、この国境まで神輿として担がれてあげた理由……貴方なら、もう分かっているのでしょう?」
エミリアは備え付けの粗末な椅子に腰掛け、優雅に脚を組んだ。その仕草一つをとっても、日中のドタバタとした動きとは似ても似つかない、洗練された王族のそれだった。
「ガルディニア特使団が提出する予定の、あの『国際法に基づく賠償請求書』……あれを書かせたのは第一王女派の猟犬、レイナード補佐官だな。彼は自信満々のようだが」
「ええ、あの哀れな狂犬は、自分が帝国の喉元に完璧な刃を突き立てていると信じ込んでいるわ。でも、可哀想に。彼が信じる『完璧な法理』の書類は、私が昼間のドタバタ劇の最中に、ほんの数行だけ『記述』を書き換えておいたの。」
エミリアは口元を歪め、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「我が国の国内法と、帝国の戦時特例法が衝突した際、自動的に『審議を本国の最高評議会に差し戻す』という特例条項を、レイナードの気づかない形で滑り込ませたわ。これがどういう意味か、貴方なら分かるわね?」
レオンハルトの眉が僅かに動いた。
「最高評議会への差し戻し……。つまり、レイナードがどれだけ帝国から賠償金を毟り取ろうと画策しても、最終的な外交成果の果実は、本国の評議会──ひいては、それを裏で牛耳る別の勢力の胸三寸になるということか。」
「その通りよ。レイナードが完璧に立ち回れば立ち回るほど、その成果はすべて『第一王女派の越権行為』として本国で弾劾される材料になる。私はね、レオンハルト……この外交問題を利用して、私の傲慢な姉を、王位継承権から永久に引きずり落とすためにここへ来たのよ。」
エミリアの瞳に、ギラリとした歪な光が宿る。
彼女の真の目的は、自国内の権力闘争、それも実の姉を社会的に抹殺するための「最高の舞台」として、この国境の危機を利用することだった。
「身内の足を引っ張るために、国家の外交を人質に取るか。相変わらず、吐き気がするほど冷酷な政治家だな、貴様は」
「褒め言葉として受け取っておくわ。で、帝国側はどう動くの? 貴方としても、第一王女派のような好戦的な一派がガルディニアの全権を握るよりは、私のように『話の通じる』相手が上に立った方が都合が良いはずでしょう?」
エミリアは身を乗り出し、レオンハルトを覗き込んだ。
「今回の交渉、帝国はレイナードの要求を『あえて一度、全面的に受け入れる姿勢』を見せなさい。彼を徹底的に調子に乗らせ、勝利を確信させた瞬間に、私が仕込んだ罠で奈落へ突き落とす。これが私の描いたシナリオよ。乗るかしら?」
静寂が地下室を包み込む。レオンハルトは沈黙のまま、目の前の「怪物」を見つめていた。その若々しい容姿の裏に隠された、底知れない権力への執着と冷徹さ。しかし、帝国としてもガルディニアの内部崩壊は願ってもない好機であることは事実だった。
「……いいだろう。貴様の『姉殺し』の計略、帝国としても乗ってやる。だが、勘違いするなよ、エミリア」
レオンハルトは一歩踏み出し、エミリアの眼前にその鋭い視線を突きつけた。
「我が帝国の領土、そして利権は一歩たりとも譲らん。貴様が姉を失脚させた後、ガルディニアが帝国に対して絶対的な恭順を示すこと──それが、俺がこの密約を呑む最低条件だ。」
「ふふ、威勢がいいこと。ええ、いいわよ。私はただ、あの高慢な姉が絶望に染まる顔が見たいだけ。国益なんて、その次の話だもの」
エミリアは立ち上がり、再びマントを深く羽織った。
その瞬間、彼女の瞳に再び「光」が戻り、顔の筋肉が弛緩していく。一瞬にして、地下室にいた冷徹な政治家は消え去り、そこには再び「お転婆で無害な第三王女」が立っていた。
「それじゃあ、夜更かしはお肌の天敵だから、私はお先に失礼するわね。帝国の宿舎のベッドが、ロマンス小説のように寝心地が良いことを期待しているわ!」
軽やかな足取りで地下室を去っていくエミリア。
残されたレオンハルトは、彼女が去った扉を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……恐ろしい女だ。だが、今回の盤上には、貴様の予測をも超える『不確定要素』が既に配置されているぞ、エミリア?」
レオンハルトの脳裏に浮かんだのは、帝都ヴァルハイト邸で静かに本を読んでいるであろう、あの青年の姿だった。




