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第50話 お転婆姫のロマンス街道


 国境線を取り巻く峻厳な山々を抜けた先、冷涼な風が吹き抜ける帝国領の街「アイゼンハイド」の検問所は、朝から異様な熱気に包まれていた。


 厳重な警戒態勢が敷かれた石造りの大門へと、一台の馬車が滑り込んでくる。ガルディニア王国の象徴である「白百合と二振りの剣」の紋章が金細工で彫り込まれた、大仰なまでの高級馬車だ。その前後を、統一された白銀の甲冑に身を包んだ近衛兵たちが固めている。



「──おい、聞いたか? ガルディニアの第三王女殿下は、大変な『傾国』の御方らしいぞ?」


「傾国? 国を滅ぼすほどの美女ってことか?」


「いや、意味が違う。別の意味で国を傾かせる……要するに、とんでもないお転婆で、我が儘の権化みたいな姫さんだって話だ。」


検問所の隅で槍を携える帝国兵たちの囁きを遮るように、馬車の扉が内側から勢いよく蹴り開けられた。



「まぁ! ここが帝国の土なのね! 素晴らしいわ、空気の匂いからして我が国とは違って、なんだか鉄と硝煙のロマンスが漂っている気がします!」



 馬車から飛び出してきたのは、燃えるような緋色の髪を左右に跳ね上げ、目の覚めるようなエメラルドグリーンの瞳を輝かせた少女だった。ふんわりとした華美なドレスを着ているにもかかわらず、その動きには一切の躊躇がない。彼女こそが、ガルディニア王国第三王女、エミリア・リガード・ガルディニアであった。



「エ、エミリア殿下! 突然馬車から飛び出されては危険です! まだ帝国の不審者チェックが──!」



 馬車から転がり出るようにして後を追ってきたのは、仕立ての良い官服を泥で汚した初老の男、レイナード補佐官だった。彼は第一王女派の息がかかった有能な外交官であり、今回の特使団の実質的なまとめ役でもある。しかし、その額にはすでに青筋が何本も浮かんでいた。



「あら、レイナード。不審者だなんて失礼よ。私たちがこれから行うのは、帝国と王国の歴史に深く刻まれる、至高の文化的交流なのですから! ほら、見てごらんなさい!」



エミリアは胸を張り、手にした分厚い革装丁の冊子を掲げた。表紙には金箔で『黒鉄の騎士と白百合の誓い〜国境を越えた秘め事〜』と仰々しいタイトルが躍っている。



「我が国の新進気鋭の文士たちと、帝国の高名な作家による、ロマンス小説の合同出版計画! この平和的かつ情熱的なプロジェクトのために、私はわざわざこの退屈な国境を越えてきたのです。ああ、想像するだけで胸が高鳴るわ。帝国の騎士様って、本当に皆さん夜這いがお得意なのかしら?」


「で、殿下──ッ!? 声が大きい、声が大きすぎます!」



レイナードは顔を真っ青にしてエミリアの口を塞ごうとしたが、彼女は素早いステップでひらりとそれをかわした。周囲の帝国兵たちは、唖然とした表情でその光景を見つめている。

 緊迫した国境の引き渡し、重苦しい国際問題の渦中にあって、この第三王女が持ち込んだ空気はあまりにも場違いで、あまりにも「無害」だった。



「良いですか、エミリア殿下。我々は遊興の旅に来たのではありません。先の『襲撃』において、我が国の至宝たる騎士が不当に捕らえられた件について、厳重な抗議と交渉を行うために──」


「硬いお話はナシです、レイナード! 政治なんて難しくて頭が痛くなっちゃうわ。私はただ、美味しいお菓子を食べて、素敵な殿方とお喋りをして、ロマンス小説の挿絵に使うための帝国風のドレスを仕立てたいだけ。ねえ、そこの帝国兵の方?」



 エミリアは、一番近くで硬直していた若い帝国兵にすり寄ると、その手を両手で包み込んで潤んだ瞳で見つめた。



「帝国の男の人は、みんなそんなに逞しい腕をしているの? 素敵……今度、私の私室でその筋肉の構造について詳しく教えてくださらない?」


「は、ははっ!? あ、あの、自分は……!」



若い兵士は耳まで真っ赤にして直立不動になり、レイナードはついに胃を押さえてその場にしゃがみ込んだ。



「ああ……神よ……。なぜこの『お転婆姫』が特使団の代表なのだ……。第一王女殿下がおいでになっていれば、このような屈辱は……」



文官たちが口々に嘆き、ため息を漏らす。彼らにとって、エミリアは「優秀な姉たちに比べて何も考えていない、ただの我が儘で無知なお転婆娘」だった。彼女を特使の神輿として担いだのは、本国での責任転嫁のためでもある。失敗すればエミリアのせいにでき、成功すればレイナードたちの手柄になる。


 エミリアは、そんな文官たちの冷ややかな視線や、レイナードの失望の呟きを、すべて完璧に聞き流していた。いや──聞き流しているように、見せていた。

 彼女は華やかに笑いながら、周囲の兵の配置、検問所の構造、そして遠巻きにこちらを観察している帝国の「目」の位置を、網膜の裏に一瞬で焼き付けていた。



(帝国中央騎士団の巡回ルート、半刻のズレあり。検問所の兵の士気は高いけれど、突発的な事態への対応には硬さが見られるわね。……それにしても、あそこに隠れている『鼠』は、レオンハルトの部下かしら?)



 エミリアの脳内は、表に出している幼児的な言葉遣いとは完全に乖離した、冷徹な演算で埋め尽くされていた。彼女はわざとドレスの裾を大きく翻し、水たまりを飛び越えるフリをして、レイナードが大事そうに抱えていた「帝国への要求書(草案)」のファイルを、手荷物ごと引っ掛けた。



「きゃっ!」


「あっ!? これ、殿下、何をおしに──!」



バラバラと地面に散らばる極秘書類。エミリアは「ごめんなさい!」と大騒ぎしながら書類を拾い集めるフリをして、そのうちの数枚──帝国側の法理の裏をかくための「国際法特例条項」が記載された頁──の配置を、自分の袖に隠した別の偽書類と、ほんの一瞬で、完全にすり替えた。



「もう、レイナードったら、こんな大事な書類はもっとしっかり持っていなくてはダメよ? ほら、お返しします!」


「う、うう、申し訳ありません……。早急に宿舎へ向かいましょう。これ以上、殿下に勝手な動きをされては身が持ちません。」


 泥のついた書類を忌々しげに奪い返したレイナードは、エミリアが仕掛けた「致命的な罠」に全く気づいていなかった。


 宿舎へと向かう馬車の中、エミリアは再び窓の外を眺めながら、無邪気な笑みを浮かべ続けた。その瞳の奥にある底知れない闇は、誰にも見えないまま、国境の街「アイゼンハイド」の夜へと溶けていくのだった。


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