第48話 月下の皇太子ー3
その日の深夜。ヴァルハイト公爵邸の応接室は、重苦しい静寂に包まれていた。
豪奢なソファの上で、トアは呼吸を乱しながらも、抑制薬と冷却の魔導具によってどうにか意識を保っていた。その傍らには、片時も離れようとせず、トアの細い右手を両手で包み込むように握りしめるリゼの姿がある。
その静寂を破り、応接室の隠し扉が音もなく開いた。
現れたのは、護衛も連れず、ただ一枚の深紅のマントを羽織った男――ヴェルスーン帝国の現皇太子、レオンハルト・アーサー・ヴェルスーンであった。
「――夜分遅くにすまない。アルテリゼ、そして、トア。」
レオンハルトは低く掠れた声で語りかけ、フードを外した。その端正な顔立ちには、いつもの余裕に満ちた皇太子としての笑みはなく、深い疲弊と、色濃い自責の念が刻まれている。
「レオンハルト皇太子殿下……。いくら実質的に帝国の政権を握られたとはいえ、夜中に単身で我が公爵邸に忍び込むなど、不謹慎が過ぎます。」
リゼはトアの前に立ち塞がるようにして、冷淡な声を放った。その琥珀色の竜の瞳は、明確な敵意と不快感に細められている。リゼにとって、トアの脳を酷使せざるを得ない状況を作り続ける帝国の政治劇そのものが、憎悪の対象だった。
レオンハルトはリゼの殺気を受け止めながらも、車椅子の横に横たわるトアの青白い顔を見つめ、痛ましそうに拳を握りしめた。そして、トアの前にゆっくりと膝を突き、床に頭を垂れた。
「……分かっている。私の力不足だ。あの事件から今日に至るまで、私はトア、お前のその常人離れした頭脳に頼りすぎてしまった。お前がその『脳』を動かすたびに、命の灯火が削られていくと知りながら……。本当に、申し訳ない。」
皇太子でありながら、一人の少年の前で涙を滲ませて深く頭を捨てるレオンハルト。その姿に、トアは微かに唇を動かした。
「……顔を、上げてください、レオンハルト殿下。俺が勝手に……解析しただけです……」
「謝罪なら結構です。トアをこれ以上、政治の泥沼に巻き込まないでいただきたい。次があるなら、私はあなたであっても斬る。」
リゼの背後から伸びた細くしなやかな竜のしっぽが、怒りと警戒で逆立ち、床を激しく叩いて威嚇の音を鳴らす。
「ああ、約束する。だからこそ、私は動いているんだ。」
レオンハルトは顔を上げ、確固たる決意を瞳に宿して言った。
「トアのその身体、そして過負荷で焼き切れかかっている脳を治療するため、私はある場所にアプローチをかけている。北方の永久凍土に建つ白銀の魔塔――その主であり、帝国最強と噂される大魔導師『エイルハルト』だ。彼なら、トアの脳を解読し、救えるかもしれない。」
その言葉に、リゼの尾の動きがピタリと止まった。人嫌いで魔塔に引き篭もっているという伝説の大魔導師。それがトアを救う鍵になるなら、リゼにとってはどんな代償を払ってでも掴み取るべき一縷の望みだった。
「……本当、なのですか?」
「ああ。既にオルレアン公爵を通じて接触を試みている。だが、トアを救うためには、今、帝国に迫りつつある『最悪の嵐』を乗り越えねばならない。」
レオンハルトの表情が、一瞬にして冷徹な統治者のものへと変貌した。
「アルテリゼ、これはまだ一部の閣僚しか知らされていない最重要機密だ。隣国ガルディニア王国から、我が国の『無断国境侵犯』に対する公式の抗議特使団が、すでに帝都に向けて進軍している。」
「……何ですって? 我が騎士団が国境を不法に越えた覚えなどない。完全な言いがかりです。」
「そうだ。だが奴らは完璧な『法の罠』を用意している。特使団を率いるのは、ガルディニアの第三王女、エミリア・リガード・ガルディニア。世間ではお転婆でロマンス小説をこよなく愛する『ピエロ』と噂される女だが……その本質は、底が知れない。」
レオンハルトはトアを見つめ、言葉を絞り出した。
「トアが掴んだノルトエンデ辺境伯の私兵増強、そしてこのタイミングでのガルディニアの揺さぶり。偶然にしては出来すぎている。これは……帝国を内と外から挟み撃ちにし、瓦解させるための大乱の序曲だ。奴らの狙いを外交の盤上で叩き潰さねば、トアを北へ連れて行くことすら叶わない。」
寝台の上で、トアの瞳に微かな光が戻る。レオンハルトがもたらした最悪の報せ。しかし、トアの脳内にはすでに、帝国の盤上で踊る見えざる敵の配置図が、明確に描き出されようとしていた。




