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第47話 月下の皇太子ー2


 アルテリゼ公爵邸の周囲を囲むのは、帝国の最高峰たる結界術式と、半竜女公爵リゼの圧倒的な魔力が編み上げた「絶対不可侵」の防衛網であった。

 鬱蒼とした夜の森の境界線。レオンハルトは愛馬の手綱を引き、黒い外套のフードを深く被り直した。彼の眼前に佇む公爵邸の巨大な正門は固く閉ざされ、周囲の空気は、不法侵入者を一瞬で塵へと変えるほどの高密度の攻撃魔術を帯びて、微かにパチパチと青白い火花を散らしている。


 普通であれば、帝国の次期皇帝たる皇太子が、このような真夜中に公式の先触れもなしに他家の邸宅を訪れるなど、狂気の沙汰であった。もし結界に触れれば、公爵邸の私兵だけでなく、王都を守る近衛連隊が一斉に跳ね起きる事態になりかねない。

 だが、今のレオンハルトは皇太子の仮面を捨てていた。一人の友を陰謀から守るための、ただの「無頼の男」としてここに立っている。


「――やはり、相変わらず容赦のない防衛網だな、アルテリゼ。」


 レオンハルトは自嘲気味に呟くと、馬から飛び降り、正門の少し手前にある古びた石柱へと歩み寄った。

彼は懐から、一本の小さな銀製の短剣を取り出した。それはかつて、古文書館の暗い書庫でトアと歴史を語り合っていた頃、トアが「ヴァルハイト公爵邸の古い防衛術式には、特定の知識を持つ者だけが通れる“裏口”があるんですよ?」と、無邪気に教えてくれた古の魔術知識に基づいていた。


トア・レンバートという天才は、公爵邸の歴史を紐解く中で、先代が残した防衛術式の微かな「記述の歪み」を見抜き、特定の固有魔力を流し込むことで、結界を鳴らさずに解除するバイパスを解明していたのだ。


 レオンハルトは短剣の刃を己の左手のひらに当て、躊躇なく引き裂いた。じわりと溢れ出た新鮮な血が、銀の刃を濡らす。彼はその血に、皇族特有の「光の因子」の魔力を強く込め、石柱の特定の文様に押し当てた。


「……応えろ、トアの遺した文字よ。」


冷たい静寂が数秒、森を支配した。

次の瞬間、目の前を塞いでいた青白い魔力の壁が、まるで水を打ったように静かに左右へと割れた。警告音も、光の爆発もない。トアの知性が編み出した通りの、完璧な「無音の開門」だった。


「流石だな、トア。お前の頭脳は、やはり世界で一番恐ろしい。」


レオンハルトは小さく息を漏らし、馬の手綱を引いて結界の裂け目へと足を踏み入れた。

 しかし、公爵邸の防衛は結界術式だけでは終わらない。

彼が前庭の深い芝生に一歩を踏み出した瞬間、左右の闇から、一切の気配を消していた「本物の死神」たちが姿を現した。


シュッ――!!


風を切る鋭い音が響き、レオンハルトの喉元と、背後の退路を断つように、二本の漆黒の短剣が突きつけられた。


「そこまでだ、不審者。我が公爵邸の結界を無音で抜ける手口、ただの盗賊ではあるまい。顔を見せろ。さもなくば、その首をここで落とす。」


 冷酷極まりない声でレオンハルトの動きを止めたのは、公爵邸の隠密・防衛を取り仕切り、トアの護衛をしているシエラだった。さらにその背後には、両手に巨大な肉切り包丁のような魔導重剣を構え、熊のような巨体を揺らして睨みつけるバルトの姿もあった。

 二人とも、昼間の穏やかな笑顔は完全に消え失せ、主人の日常を脅かす敵を屠るための、完璧な殺戮者の眼光を宿している。

レオンハルトは両手をゆっくりと上げ、降伏の意思を示しながら、静かにフードを後ろへと跳ね上げた。

 月光が、その端正で、どこか傲慢な皇太子の容貌を蒼白く照らし出す。


「な……っ!? レ、レオンハルト殿下!?」


シエラが驚愕に目を見開き、突きつけていた短剣を微かに震わせた。


「馬鹿な……皇太子殿下が、何故このような真夜中に、それも護衛も連れずに公爵邸へ不法侵入を……!」


バルトもまた、構えていた重剣の切っ先をわずかに下げたが、その鋭い眼光は緩めなかった。


「殿下。いくら次期皇帝の身位にあられるとはいえ、夜間にアルテリゼ公爵邸の結界を破っての侵入は、国家法においても重大な反逆行為とみなされかねませんぞ。何が目的でございますか?」


レオンハルトは左手の傷口を外套で押さえながら、バルトとシエラを真っ直ぐに見据えた。その瞳には、皇族としての傲慢さはなく、ただ切実な、友を思う炎が灯っていた。


「私の無礼は、後でいかようにも裁くがいい。……だが、今すぐリゼを、そしてトアを呼べ。ガルディニア王国からの全権特使団が、すでにこの王都のすぐ側まで迫っている。時間が無いのだ。」


その言葉に、バルトとシエラの表情が同時に凍りついた。

夜の帳の向こう、静まり返った本邸の窓から、微かに漏れる魔導灯の光。そこには、今も後遺症の眠りの中で守られている、彼らの最愛の主人がいる。皇太子がもたらした最悪の密報は、公爵邸の静かな夜を一瞬で戦場へと変えようとしていた。


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