第46話 月下の皇太子ー1
帝国の政治的中枢たる白亜の王宮「ヴァイス・クローネ」。
その最上階に位置する第一執務室は、かつて第一皇子ルードヴィヒがその権勢を誇示するために使われていた場所だった。
しかし数週間前、外患誘致の大逆罪によってルードヴィヒが永久幽閉の身となって以来、この部屋の主は入れ替わった。
新たに部屋の主となったのは、第二皇子であり、今や帝国の正当な第一皇位継承者(皇太子)として立太子礼を間近に控えた青年――レオンハルトである。
「――殿下、こちらがガルディニア王国から正式に届いた親書、および国境守備隊からの報告書でございます。」
老練な筆頭補佐官が、重々しい足取りで机の前に進み出、羊皮紙の束を恭しく差し出した。
レオンハルトはそれを無言で受け取ると、鋭い眼光を走らせる。背負うべき帝国の未来という重責が、その肩に重くのしかかっていることは、彼のわずかにやつれた双眸が物語っていた。
「ガルディニア側は、我が国の近衛騎士団長であるアルテリゼ公爵が、拉致された書記官トア・レンバートの救出を理由に、自国の領土を無断で侵犯したことについて、公式な抗議を申し立ててきています。全権特使として第三王女エミリア・リガード・ガルディニアの一行が、すでに王都へ向けて国境を出発したとのことです。」
「エミリアがか……」
レオンハルトは親書から目を離さず、低く呟いた。
ガルディニア王国の第三王女エミリア。表向きは戦場を駆ける「戦乙女」でありながら、宮廷内では自由奔放でロマンスに狂ったお転婆娘として知られている。だが、レオンハルトはその本質が単なる無鉄砲ではないことを、かつての外交経験から直感的に知っていた。
「報告書によれば、特使団の実質的な実務を取り仕切っているのは、第一王女派の俊英であるレイナード・エインズワース子爵とのこと。彼は法規至上主義の冷徹な男。今回の国境侵犯を盾に、我が国に対して巨額の賠償金、あるいはアルテリゼ公爵の軍権一部返上を迫ってくるのは確実かと。」
補佐官の言葉に、レオンハルトはふっと冷ややかな笑みを漏らした。
「リゼの軍権返上、か。ガルディニアの第一王女派め、相変わらず浅ましい。我が兄ルードヴィヒの失脚により、帝国との裏のコネクションを失った途端、今度は表の外交戦でアルテリゼ公爵家の力を削ぎにきたというわけか。」
「やはり……今回のガルディニアの動き、ルードヴィヒ前殿下の残党と繋がりが?」
「ああ、間違いない。」
レオンハルトは机の上に親書を叩きつけるように置いた。
「ルードヴィヒは幽閉されたが、奴が国内外に張り巡らせた売国のネットワークがすべて壊滅したわけではない。特にガルディニアの第一王女の派閥は、ルードヴィヒと結託して帝国から非合法な魔導技術や資金を吸い上げていた。奴らにとって、拉致事件の舞台裏を知るトア・レンバートの存在は、何としても消し去りたいか、あるいはその口を封じたい不都合な真実そのものだ。」
レオンハルトは椅子から立ち上がり、大きな窓の前に歩み寄った。
窓の外には、夕暮れに染まる王都の街並みが広がっている。その遙か先、緑豊かな丘の上に佇むアルテリゼ公爵邸の屋根が、微かに西日に輝いていた。
(トア……)
その名を心の中で呼ぶだけで、レオンハルトの胸の奥に、鋭い痛みが走る。
トア・レンバート。かつて身分を隠して古文書館に通っていたレオンハルトと、立場を超えて本を語り合い、孤独な心を分かち合った唯一の「友人」。
政治の冷酷な荒波の中で、レオンハルトは一度、その友人を陰謀のダシとして利用し、傷つけてしまった。トアの命を救おうとした意図だけは認められ、こうして皇太子の地位に留まることを許されたものの、トアの肉体に刻まれた重い後遺症は、他ならぬ己の招いた結果であるという罪悪感が、夜ごとレオンハルトの心を苛んでいた。
「殿下、この件、アルテリゼ公爵邸にはいかがなさいますか? 公式な通達は明朝行う予定ですが……」
「いや、公式ルートでは遅すぎる。ガルディニアの第一王女派は、レイナードという男を盾にして法的な包囲網を敷いてくるはずだ。アルテリゼ公爵家が不意を突かれれば、帝国の国益に関わる。」
レオンハルトは振り返り、補佐官に鋭い命を下した。
「今夜の公務をすべて夜半までに終わらせる。深夜、私は護衛を連れず、単身でアルテリゼ公爵邸へ向かう。」
「なっ……殿下! それはあまりにも危険です! 立太子礼を控えた身で、もし不測の事態が起きれば――」
「黙れ!」
レオンハルトの声には、一国の次期指導者たる絶対の威厳が宿っていた。
「これは政治的な危機管理であり、同時に……私が友人に対して果たすべき、最低限の義務だ。奴らはトアの持つ『頭脳』を狙っている。ならば、私がその盾にならねばならん。準備をしろ。」
「……御意にございます。」
補佐官が苦渋の表情で一礼し、退室していく。 静まり返った執務室で、レオンハルトは再び窓の外を見つめた。
ガルディニア王国の深謀、失脚した兄の残党の焦り、そして動き出す戦乙女。王都を揺るがしたあの大弾劾劇の残光は、今、新たな外交戦という嵐を呼び寄せようとしていた。
レオンハルトは懐から、かつて古文書館でトアと共に読んだ古い歴史書の栞をそっと取り出し、強く握りしめた。
「トア、今度は私が、お前を、お前の日常を守ってみせる。」
夕闇が王宮を包み込んでいく中、レオンハルトの瞳は、静かに、しかし冷徹な決意を込めて燃え上がっていた。




