第45話 暗号の解析
軍学校を揺るがした未曾有の暴走事件は、混迷の極みにあった。しかし、それは一人の車椅子の少年の知略と、帝国最強の「半竜」の女公爵による圧倒的な武力によって、文字通り一堂の元にねじ伏せられることとなった。
――だが、本当の戦いは、硝煙が薄れたその瞬間から始まっている。
「……やっぱりな。この術式構成、それに物資の流出経路。あまりにも不自然だ。」
ヴァルハイト公爵邸の広大な書斎。天井まで届く本棚に囲まれたその部屋の片隅で、トアは車椅子の上で一人、机に広げられた鉄錆の塊を睨みつけていた。
それは軍学校の事件で回収された、暴走魔導兵器の残骸である。焦げ付いた魔力回路から強引に抽出した暗号データが、トアの脳内で光の羅列となって演算されていく。
「トア様、少々根を詰めすぎではございませんか。リゼ様がご覧になれば、また生きた心地のしない顔をなさいますよ。」
静かに音もなく近づき、温かい紅茶のカップを机の端に置いたのは、ヴァルハイト公爵家の執事長ハンス・ロバーツだった。白髪を綺麗に整え、一分の隙もない燕尾服をまとった老執事は、心配そうにトアの青白い顔を見つめている。
「分かっているよ、ハンスさん。でも、この糸口だけは今掴んでおかないと、次の一手で後手に回るからね。」
トアは紅茶に口も付けず、再び視線を魔力暗号の解析へと戻した。
脳内が熱を持つ。焼き切れそうなほどの過負荷と引き換えに、暗号の「壁」が次々と崩壊していく。
(……この術式の『癖』、そして魔力を安定させるための独自の隠蔽コード。これは中央の魔導師団のものではない。それに、ライン公爵家が没落する直前、不自然に籍を抹消されたお抱えの魔導技術者たちの足取りと完全に一致する……!)
不正事件で追放処分となり、没落したはずのライン公爵家。彼らが遺した負の遺産――優秀ながらも行き場を失った技術者たちと、高度な古代魔導兵器の横流し品。
それらを裏で全て買い叩き、一箇所に集めている巨大な影の輪郭が、トアの脳内で完全に結ばれた。
(行き先は……帝国の遥か北端。永久凍土の地)
「やっぱりか!ノルトエンデ辺境伯……ッ!」
トアは小さく息を呑んだ。
中央の監視の目が届きにくい極寒の地を治める、武闘派の大貴族。彼が中央に隠れて、ライン公爵家の遺産を取り込みながら「私兵を異常な規模で増強している」という決定的な確証。
それを掴んだ瞬間だった。
「あれ?」
ーーポタ、ポタ。
トアは自分の膝に赤い雫が落ちるのを見た。
限界を迎えたトアの視界が、急激に暗転していく。鼻から血が滴り落ちるのを感じ、脳が熱で焼き切れるような激しい眩暈が襲い、トアの身体は車椅子の上でガクリと崩れ落ちた。
「トア様……!?血が!!」
ハンスが声を上げるより早く、書斎の重厚な扉が勢いよく開け放たれた――。
◇◇◇
「トア……!? トア、しっかりして!!」
ハンスが駆け寄るよりも早く、疾風のごとき速度で書斎に飛び込んできた影があった。
ヴァルハイト公爵家の現当主であり、帝国近衛騎士団を率いるアルテリゼである。
リゼは車椅子から崩れ落ちそうになっていたトアの身体を、その強靭でありながらも、壊れ物を扱うかのように優しい腕でガッシリと抱きとめた。
「ああ、トア……! またこんなになるまで脳を使って……!」
アルテリゼの顔が、今はひどく脆く、今にも泣き出しそうな慈愛の表情に歪んでいる。リゼはトアの細い身体を愛おしそうに自分の胸へと抱きすくめ、その青白い額に己の手を当てた。
「ハンス! すぐに冷却の魔導具と、いつもの抑制薬を!」
「すでに手配しております、閣下。リサに命じて、応接室のソファに休ませる準備も調えさせました!」
「頼む……!」
リゼはトアを横抱きに抱え上げると、片時も離れたくないと言わんばかりの強い力でホールドしたまま、急ぎ足で書斎を後にした。
――そして。
二人が去った書斎の、分厚いカーテンの隙間から、一人の少女が音もなく姿を現した。
「……ッッッッッ!!!!(声にならない絶叫)」
ヴァルハイト邸の新人メイド、シエラ・ハイゼット。しかしその実態は、リゼから「秘密裏にトアの護衛」を指名された、一騎当千の実力を持つ隠密騎士である。
だが、今のシエラに「護衛騎士」の面影は微塵もなかった。
彼女の頭上に生えた狼の獣耳はピンと直立したまま激しく自転するようにピコピコと震え、スカートの後ろから伸びたふわふわのしっぽは、まるで親の仇を見つけたかのようにブワッと逆立って痙攣している。
(尊い……! 尊すぎますリゼ様トア様……!! あの、各国に「無慈悲の処刑人」とまで囁かれるリゼ様が、トア様を抱きしめながら『壊れちゃいそうなお人形を見るような聖母の顔』をしていらっしゃいました……! ああ、神よ、私は今、歴史的な瞬間に立ち会っている……!)
シエラは鼻血が噴き出すのを両手で必死に押さえつけ、その場に崩れ落ちて床をゴロゴロと悶絶ローリングしそうになるのを、超人的な身体能力で踏みとどまった。
普段のクールな任務姿からは想像もつかない、完全なる「主従の距離感に限界を迎えたオタク」の姿がそこにあった。
「これ、シエラ。何をしているのです。」
背後から、冷徹極まりない声が響く。
振り返ると、ヴァルハイト邸のメイドたちを束ねるメイド長、リサ・ローレンツが、冷ややかな、しかし全てを見抜いた目で仁王立ちしていた。
「ひゃいっ!? リ、リサメイド長……! いえ、その、カーテンの埃のチェックを……!」
「しっぽが千切れそうなほど振れていますよ。トア様が倒れられて公爵邸が戦場のようになっているのです。不謹慎な妄想はそこまでにして、すぐに私に続きなさい!」
「は、はいっ! 申し訳ありません!」
シエラは一瞬で居住まいを正し、リサの後を追った。心の中で「でもリゼ様のあの顔は国宝級……」と呟きながら。




