幕間 半竜の観察記録ー2
「失礼します、グレン団長。」
「……えっ、トアくん?どうしてここに?リゼはどうした?」
団長室の重厚な扉を開けて入ってきた車椅子の文官を見て、ソファーに寝そべっていたグレンは露骨に怪訝な顔をした。慌てて上体を起こし、手にしたワイングラスを机に置く。
トア・レンバート。
先の拉致事件の後遺症で車椅子生活を余儀なくされているものの、その翡翠色の瞳の奥に宿る圧倒的な「脳」の冴えは、帝国中央騎士団の誰よりも恐ろしい。
「リゼさんは、騎士団の皆さんと訓練中です。俺が代わりに挨拶に来ました。」
「なんだよ、びっくりした。俺は今、今後の帝国防衛についての深遠な思索(昼寝)の最中……」
「ええ、その帝国防衛に関する件について話があります。」
トアは車椅子をグレンの正面へと進め、手元の書類をトントンと整えた。
「本日ここへ伺ったのは、他でもありません。グレン団長――あなたの『竜の尻尾』と『耳』を、私に触らせていただきたいのです!」
「……は?」
グレンの思考が完全に停止した。
端正な顔がバカげたように歪み、数秒の沈黙の後、椅子をガタッと鳴らして立ち上がった。
「おま、トアくん、正気か!? 竜にとって尻尾や耳を人前に晒して触らせるってのが、どういう意味か分かって――」
「ええ、知識としては。家族か、あるいは生涯の伴侶にのみ許された絶対的な領域、ですね。」
トアは淡々と、しかし極めて冷徹な声で遮った。
「ですが、これは純粋な軍事研究です。リゼさんの鱗の魔力密度と、あなたの個体値を比較し、帝国軍全体の魔導防具の共通規格を作りたい。半竜の聖騎士であるあなたのデータは必須なのです。……それとも、グレン団長は『公務』よりも『個人の羞恥心』を優先されるのですか?」
「くっ……! そういう言い方ずるいだろ!」
グレンは頭を抱えた。
正論だ。あまりにも隙のない正論だが、目の前の男の目が「純粋な学者」のそれではないことを、半竜としての野生の勘が告げている。トアの翡翠色の瞳は、まるで盤上の駒を動かすように、グレンの反応を冷徹に観察していた。
「それに」
トアはさらに車椅子を一歩進め、グレンをじっと見つめた。
「グレン団長ほどの傑物であれば、感情を完全にコントロールし、リゼさんに気付かれぬよう『一瞬だけ』部位を開示し、私に触らせるなど朝飯前のはず。……まさか、現中央騎士団長は、自らの魔力の制御すらままならないほど衰えていらっしゃるわけではないですよね?」
(こいつ……わざと煽ってやがる……!)
グレンの額に青筋が浮かぶ。
トアの放つ、人族のものとは思えないほどの静かな、しかし圧倒的な精神的プレッシャー。その底知れない圧に当てられ、グレンの心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
(しまっ――)
危機感による感情の急激な昂り。それが引き金だった。
グレンの強固な魔力擬態が、内側から強制的に弾け飛ぶ。
バサリ、と音を立てて、白色の鱗に覆われた『竜の耳』が髪を割って飛び出し、上着の裾から強靭な『太い竜の尻尾』が床へと滑り落ちた。
「くっ、術が暴発した……!?」
「ほう。やはり感情の起伏で勝手に出てしまうのですね。素晴らしいサンプルだ。」
トアの瞳が好奇心でカチリと輝く。
捕食者のようなその視線にゾワリと総毛立ちながら、グレンは必死に尻尾を背後に隠そうとした。
「待て、トアくん! 見るのは百歩譲って許す! だが触るのはマジでナシだ! 本能のライン超えだ、俺たちの関係性がバグる!!」
「冷たいですね、減るものでもあるまいし。少し硬度を確かめるだけです。」
トア・レンバートは何の躊躇もなく、グレンの金色の混ざる美しい鱗へと無造作に指先を伸ばした。
その指先が、グレンの尻尾の先端に触れる――まさにその刹那。
グレン・スチュアートの脳内で、全神経が「最大級の警報」を鳴り響かせた。
(待て。アカン。これはマジでアカンやつだ――!!)
竜族において、耳や尻尾への接触を許すのは「家族」か「伴侶」のみ。もし今、この『ただの人族』であるはずのトアに触れられれば、グレンの魂に刻まれた絶対的な本能の法がバグを起こす。
トアを「伴侶」だと誤認するか、あるいは領域を侵犯した敵として「自動防衛システム」が作動し、トアの肉体を消し飛ばしてしまうか。
どちらに転んでも、グレンの破滅は免れない。
何より、トアのあの翡翠色の瞳――底の知れない深淵のような知性の光が、グレンの野生の本能に「逆らうな」と無言の圧力をかけているような、得体の知れない恐怖があった。
「触るなァァァア!!」
グレンは本気で悲鳴を上げ、ソファーを飛び越える勢いで後ろへと跳ね飛んだ。
間一髪、トアの指先は鱗に触れなかった。心臓がバクバクと鐘のように鳴り響く。大急ぎで尻尾を上着のなかに隠し、擬態を編み直そうとしたその時――。
グレンの背後の空間が、凄まじい熱量によって爆発した。
ゴオオオッ!!! と、団長室の重厚な防音扉が、内側からの圧倒的な魔力によって一瞬でチリへと変わる。
「――へぇ。私が知ったら、何だ? グレン。」
爆炎の向こうから現れたのは、漆黒の軍服を翻したアルテリゼだった。
普段は冷徹な彼女の顔が、今は見たこともないような笑顔で固定されている。怒りと激しい独占欲の昂りによって、頭髪の隙間からは凶悪な漆黒の『竜の耳』が、そして床を激しく叩きつける『竜の尻尾』が完全に露出していた。
「リ、リゼ……!? いつからそこに……!」
グレンの顔から血の気が引く。
リゼはグレンを一瞥もせず、真っ直ぐに車椅子のトアの元へと歩み寄ると、その場に膝をついてトアの膝に顔を埋めた。トアが「お待たせ、リゼさん」と優しくその髪を撫でると、リゼの漆黒の尻尾が嬉しそうにパタパタと揺れる。
「トア。この男が、あなたに無礼を?」
「いや、グレン団長の鱗の硬度をリゼさんと比べたくてね。触れようとしたら、全力で拒絶されてしまったよ。」
トアの言葉に、リゼの琥珀色の瞳がキリリとグレンを睨みつけた。
「当然だ。トアが触れていいのは、世界で私だけ。……それにしてもグレン、お前、よくも私のトアに色目を使ったな。」
「はあああああ!?!? 色目ぇぇぇ!?!?」
理不尽極まりない言いがかりに、グレンの裏返った声が響き渡る。
「お前、どこの世界にこんな可愛げのない文官に色目使う聖騎士がいるんだよ! 必死に拒絶してたのトアくんのセリフから分からなかったか!? 被害者はお前の旦那の精神的プレッシャーで術を暴発させられた俺だろ!!」
「問答無用。我が伴侶の前でみだりに部位を露出させた罪は重いわ。万死に値する、灰になりなさい。」
「話を聞けぇぇええ!!」
シュゴォォ、とリゼの手のひらにドス黒い魔力の炎が灯る。
甘えるようにトアに尻尾を絡ませながら、自分には容赦なく魔術を叩き込もうとする極上の半竜。グレンは内心で涙を流しながら、改めて確信するのだった。
(……三年前、狂竜化して近づくもの全てを惨殺していたリゼの尻尾を、こいつは平然と握り締めて看病してたんだよな。やっぱり、このトアって旦那の『正体』は、本能のバグなんてレベルじゃねぇわ……!)
◇◇◇
一方その頃。中央騎士団庁舎の裏庭。
「――副団長。あの、団長室の方から凄い爆発音と、グレン団長の悲鳴が聞こえたのですが……よろしいのですか?」
見回りの部下からおずおずと尋ねられ、副団長のゲイルは、持参した折りたたみ椅子に深く腰掛けたまま、静かにお茶をすすった。彼女の前には、あらかじめ団長室から私物と一緒に回収してきた「今日提出予定の重要書類の山」が綺麗に積まれている。
「気にするな。あれは定期的な『天災』のようなものだ。」
「て、天災ですか?」
「ああ。トア殿が団長室へ向かう姿を廊下で見かけた時点で、私はすべての重要書類を抱えてこの場へ退避した。案の定、五分と持たずに扉が吹き飛んだな。」
ゲイルは遠くの庁舎から立ち上る黒煙を眺めながら、深くため息をついた。
人族であるゲイルには、半竜たちの本能の領域は分からない。
だが、あの「トア・レンバート」という文官が、どれほど冷徹に、かつ正確に他人の行動をコントロールする狂人(天才)かだけは、これまでの付き合いで嫌というほど理解していた。
「団長も哀れだな。トア殿の『観察対象』に選ばれた時点で、彼の敗北は決まっていたというのに、律儀に術を暴発させて罠にハメられるとは。」
「……あの、助けに行かなくて良いのですか?」
「行くわけなかろう。今あの部屋に入れば、リゼの独占欲の炎に巻き込まれて骨も残らん。私たちはここで、団長室の修復費用の見積もりと、団長の精神的慰謝料(主に酒)の請求書をいつでも発行できるよう準備するだけだ。」
ゲイルは再びお茶をすする。
「おいゲイル! 戻ってこい! この部屋の結界の修復と、俺の精神的慰謝料の請求書を作れ!」
遠くから風に乗って聞こえてきた上司の必死の叫び声を、ゲイルは心地よい秋の風とともに、綺麗に聞き流すのだった。




