第44話 膝の上のぬくもり
騒乱の余韻が残る帝国軍事学校を後にし、俺たちの馬車は再び帝都への帰路に就いていた。
夕刻の柔らかな斜光が、三重の『衝撃吸収』結界に守られた静かな車内へと差し込んでいる。薫香の煙が、疲弊した俺の脳を優しく解きほぐしていくようだった。
「……トア、本当に大丈夫か? どこも痛まないか?」
隣に座るリゼさんは、やはり片時も俺の手を離そうとはしなかった。美しい髪を少しだけ崩し、琥珀色の瞳には、俺の肉体的な脆さを案じる切ない色だけが浮かんでいる。
感情が未だに波立っているせいか、彼女の頭の上では青銀色の竜耳が、俺の些細な呼吸の変化を捉えようとしてピコピコと細かく動いていた。
「大丈夫だよ、リゼさん。少し、脳みそを使いすぎて眠いだけさ。」
俺は薄い茶髪をソファーの背もたれに預け、翡翠色の瞳を緩めて微笑んだ。両足の感覚は相変わらず全くないが、軽い麻痺の残る右腕をどうにか動かして、彼女の温かい手を握り返す。
すると、リゼさんの白い頬が瞬時にカッと赤くなった。軍服の裾から伸びる太い尻尾が、嬉しさを隠しきれずにソファーのシートを「ペチペチ、パタパタ」と小刻みに叩き始める。
「眠いなら、私の膝を使うといい。ほら、遠慮はいらん。いつでも貴方のすべてを受け止める準備はできている!」
「あはは、じゃあ、お言葉に甘えようかな?」
俺がゆっくりと上体を傾けると、リゼさんは慣れた手つきで俺の細い身体を抱き寄せ、自らの太ももの上へと頭を導いてくれた。
膝の上から伝わってくる、リゼさんの心地よい体温と、トアの前でだけ露わになる甘い匂い。
「……今回の事件で、はっきりしたね。」
俺はリゼさんの膝の上で、静かに瞳を細めた。
「『ノルトエンデ辺境伯』の私兵増強の噂は本物だ。彼は没落したライン公爵家の跡目争いで中央が揺れている隙を突き、『白銀の魔塔』の術式を盗み出して宮廷魔導師団を陥れようとした。すべては、帝国の権力バランスを崩壊させるための壮大な盤面だ。」
「フン、どのような陰謀を企てようと関係ない。」
リゼさんは俺の薄い茶髪を、細く美しい指先で愛おしそうに梳かしながら、低く、しかし絶対的な強さを秘めた声で告げた。
その瞳には、昏いまでの溺愛と、敵を一切容赦せぬ「氷の女公爵」としての狂気が宿っている。
「貴方がその至高の頭脳で敵の動きを暴くなら、私はその通りに動く剣となろう。貴方の眠りを脅かす北のネズミどもなど、私がその領地ごと踏み潰して圧殺して見せる。貴方はただ、私の隣で、安心して笑っていればいいのだ。」
昂る感情に合わせて、リゼさんの竜耳がピコピコと跳ね、尻尾が嬉しそうに、かつ力強くパタパタと揺れる。
「うん……。リゼさんがいてくれるなら、俺の描く盤面はいつでも不敗さ。これからも、俺の隣にいてね、リゼさん。」
「当たり前だ! 私は貴方の未来の妻なのだからな!」
真っ赤になって叫ぶリゼさんの愛らしいギャップを感じながら、俺は押し寄せてくる心地よい睡魔に身を任せた。
拉致事件の後遺症である「突発的な昏睡」の発作ではない。リゼさんの腕のぬくもりの中で、完全に安心しきった、深い、深い、本当の休息の眠りだった。
規則正しいトアの寝息が車内に響き始める。
アルテリゼは、膝の上で無防備に眠る愛おしい婚約者の顔を見つめ、その額にそっと、誓いを立てるように唇を落とした。
彼女の竜耳が愛おしそうに伏せられ、尻尾がトアの身体を包み込むように優しく丸まる。
車窓の向こう、帝国の北端――永久凍土が広がる極寒の地では、確実に巨悪の影が胎動を始めていた。
だが、トア・レンバートの「脳」と、彼を狂信する帝国最強の半竜アルテリゼの「武力」が揃った今、ヴェルスーン帝国を揺るがすいかなる陰謀も、二人の絶対的な愛の前には、ただの脆い駒に過ぎないのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――おいおい、ゲイル。今の話、マジで言ってんのか?」
帝国中央騎士団の団長室。書類の山を放り出し、いつものようにソファーへだらしなく寝そべっていたグレンは、手にしたワイングラスをピタリと止め、珍しく真剣な眼差しを副団長のゲイルへと向けた。
ゲイルは眉間に深いシワを刻みながら、お茶の入ったカップを置く。
「ああ。リゼの副官のバルト、それに妹のシエラから極秘裏に確認した事実だ。……三年前、リゼが辺境の最前線で敵国の呪いを受け、満身創痍で王都の裏路地にうずくまっていたあの夜。トア殿は恐怖もせず、彼女の暴走する龍圧すら無視して、その手を握り締めて看病した。それが二人の、すべての始まりだそうだ。」
ゲイルの言葉を聞き終えたグレンは、フン、と鼻を鳴らしてソファーから上体を起こした。その瞳には、いつものお調子者の光ではなく、「帝国屈指の半竜の聖騎士」としての冷徹な理知が宿っていた。
「おかしいな」
グレンは顎に手を当て、低く呟く。
「竜の生態における『伴侶』の定義、そして『逆鱗』に触れるって行為の意味を、あいつらは本当に分かってんのか?」
「どういう意味だ、グレン団長?」
ゲイルが怪訝な顔をする。人族であるゲイルには、竜族の持つ絶対的な本能の領域が理解できない。グレンは自らの首筋をトントンと指先で叩きながら、静かに語り始めた。
「いいか、ゲイル。今でこそトアくんは先の拉致事件の後遺症で車椅子生活だが、三年前の出会った当時は、まだ後遺症なんてない普通の五体満足な青年だったんだろ? ……だとしてもだ。あの夜のリゼは呪いによって古代竜の血が暴走し、身体が半分化け物になりかけてた。奴が放っていた『龍圧』は、並の騎士なら近づいただけで心臓が止まるレベルの精神汚染と致死性の圧力だぞ。」
グレンの目が、鋭く細められる。
「普通の人族なら、近づいただけで脳が恐怖を拒絶して狂うか、圧力を受けて肉体が内側から崩壊する。なのに、当時からただの人間だったはずのトアくんだ。なぜその龍圧を完全にスルーできた? 心の温かさだの優しさだの、そんな精神論で中和できるような生易しい代物じゃねぇんだよ、竜の怒気ってやつは。」
グレンは呆れたように笑い、立ち上がると窓外を見据えた。
「そして二つ目の疑問だ。これが一番の謎さ。
竜の『逆鱗』に触れるってのはな、単に『鱗だらけの手に優しく触れてもらった』なんて、そんなロマンチックな御伽噺じゃねぇんだよ。逆鱗は、竜の魂の核だ。そこに触れようとする者がいれば、竜はたとえ親兄弟であっても条件反射で肉体を消し飛ばす。暴走して理性を失った『狂竜』状態ならなおさらだ。近づくものすべてを肉塊に変える自動防衛システム(本能)が働いてる。」
グレンは振り返り、ゲイルの目を真っ直ぐに見つめた。
「なのに、リゼはトアくんに触れられた瞬間、噛み殺しもせず、魔力で消し飛ばしもせず、その掌の温もりを『無条件で受け入れた』。……つまりな、ゲイル。生態の順序が逆なんだよ。」
「逆……?」
「『トアくんが逆鱗に触れてくれたから伴侶になった』んじゃない。リゼの古代竜の血が、トアくんが触れるよりも前に、彼を『生涯唯一の伴侶』だと認識していたからこそ、逆鱗の防衛システムが作動しなかったんだ。だから、トアくんは今も生きてあいつの横にいる。リゼの血が、最初からトアくんという存在を、自らの魂の片割れとして『選んでいた』のさ。」
グレンの言葉に、ゲイルは息を呑み、言葉を失った。
「……それに、もう一つ気になることがある。」
グレンはワイングラスを見つめながら、声を一段と低くした。
「リゼが受けた、その『敵国の呪い』ってのは、一体何なんだ? 奴の圧倒的な古代竜の血を暴走させ、半分化け物に変えるほどの呪いだぞ。そんな高度で凶悪な呪術、隣国ガルディニアの通常の魔導師が扱えるはずがねぇ。……まるで、リゼを意図的に『狂竜』へと仕立て上げようとしたかのような、不自然さを感じる。」
グレンは不敵に笑い、再びソファーへと深く腰掛けた。
「トア・レンバート……。あの旦那様、やっぱりただの『頭のいい文官』じゃねぇわ。あの圧倒的な『頭脳』の正体……。もしかしたら、人間の世界の政治や権力争いに完全に飽き果てて『竜の秘境』に引き籠もってる、リゼの母親の古代竜あたりが、三年前の事件も、トアくんのことも、全部何か知ってんじゃねぇかな?」
グレンの抱いたその「疑問」は、単なる気の迷いではない。三年前の雨の夜に起きた奇妙な邂逅、そしてリゼを蝕んだ謎の呪い。その根底にある、人族と竜族の歴史をも揺るがす「真の因果」の存在を、お調子者の聖騎士だけは、その鋭い野生の本能で正確に察知していたのだった。




