第40話 氷の女公爵の狂気
深い、暗闇の中にいた。
思考の糸がぷつりと途切れた後の世界は、いつも静まり返っている。瞳を閉じた俺の耳に、かすかに届くのは規則的な時計の秒針の音と、もう一つ。
――ドクン、ドクン、と。
驚くほど早鐘を打つ、しかし愛おしい温もりを伴った心臓の鼓動だった。
「……トア、トア……。置いていかないでくれ。私の光、私の魂……」
泣き出しそうな、それでいて酷く切迫したリゼさんの声が聞こえる。
俺が重い瞼をゆっくりと持ち上げると、そこはヴァルハイト公爵邸の馬車に備え付けられていたものと同じ、最高級の薫香が漂う軍学校の医務室だった。
視界がクリアになるにつれ、最初に飛び込んできたのは、プラチナブロンドの美しい髪だった。
リゼさんはベッドに横たわる俺の胸元に顔を埋め、俺の手を両手で痛いほどに握りしめていた。その琥珀色の瞳は涙で潤み、プラチナブロンドの隙間からは、不安げにペタん、と垂れ下がった青銀色の竜耳が覗いている。軍服の裾から伸びる太い尻尾も、力なくベッドの床に横たわり、時折ピクピクと小さく震えていた。
「リゼ……さん……」
俺の右腕は、まだ鉛のように重かったが、指先を僅かに動かして彼女の手の甲をなぞった。
「トア……ッ!? 目が覚めたのか!?」
リゼさんが弾かれたように顔を上げた。
その瞬間、彼女の垂れていた竜耳がぴょこんと跳ね上がり、尻尾が嬉しさのあまりベッドのフレームを「ゴンッ!」と激しく叩く。
「あはは、また尻尾が暴走してるよ。……心配かけてごめんね、リゼさん。いつものことだから、そんなに泣きそうな顔をしないで?」
「心配するなと言う方が無理だ! 貴方が突然倒れるたび、私の心臓は止まりそうになるのだぞ!」
リゼさんは俺の胸に優しく、しかし離さないという強い意志を込めて抱きついてきた。半竜の強靭な腕だが、俺の脆い肉体を壊さないよう、絶妙な力加減でコントロールされているのが伝わってくる。彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、俺の髪を濡らした。
「私が悪かった……貴方の頭脳がどれほど傑出していようと、あの無礼な教官の挑発に乗らせるべきではなかった。やはり今すぐあの一族ごと、この世から消し去ってくる!」
「待って、リゼさん。それはダメだよ。」
俺は瞳を困ったように細め、彼女のプラチナブロンドの髪を左手で優しく撫でた。
「俺は自分の意志で答えたんだ。それに、あの教官の背後には、没落したライン公爵家の残党……ひいては帝国の均衡を揺るがそうとする『別の影』が見え隠れしていた。力任せに消しては、尻尾が掴めなくなる。」
「しかし……!」
なおも食い下がろうとするリゼさんの背後で、医務室の重い扉が静かに開いた。
「よぉ、お熱いところ邪魔するぜ、旦那様?」
入ってきたのは、中央騎士団長のグレン殿だった。その隣には、相変わらず苦労人の顔をした副団長のゲイル殿も控えている。
グレン殿はいつものお調子者の笑みを浮かべていたが、その鋭い双眸は、ベッドの上の俺を冷徹に見定めていた。
「リゼ、お前の過保護っぷりには呆れるが、旦那様の言う通りだ。あの教官――ライン家の息がかかったクロードって男だが、さっき講義室の裏で何者かと通信魔導具で連絡を取ろうとしていたところを、お前んとこのメイドにシバかれて拘束されたよ。」
「シエラちゃんが……?」
俺が呟くと、部屋の隅の影から、気配もなくメイド姿のシエラが姿を現した。
彼女は俺たちに向かって深く一礼する。
「お目覚め、恐れ入ります、トア様。リゼ様のご指示通り、トア様が昏睡された直後より不審な動きを見せたクロード教官を確保いたしました。……ですが、彼が所持していた通信魔導具は、こちらが接触する直前に『内部から凍結』され、破壊されました。ただの魔術ではありません。あれは――」
「北方の永久凍土、白銀の魔塔の術式だろ?」
グレン殿がソファーに腰掛けながら、不敵な笑みを浮かべた。
「人嫌いの大魔導師エイルハルトが、こんなくだらない貴族の跡目争いに手を貸すとは思えねぇ。となると、術式を盗み出して中央を混乱させようとしているネズミが北にいるってことだ。……なぁ、ゲイル?」
「ええ」
ゲイル殿が厳しい表情で頷く。
「私兵を異常増強しているという『ノルトエンデ辺境伯』。あのクロード教官の裏にいたのは、ライン家の残党ではなく、北方の大貴族かもしれません。」
帝国の不穏な縮図が、この軍学校の片隅で急速に繋がり始めていた。
ライン家の没落によって空席となった四大公爵家の座。それを巡る醜い権力闘争の裏で、北方の巨頭が動き出している。
俺はベッドの上で、まだ自由の利かない両脚の感覚を確かめながら、リゼさんの手をもう一度強く握りしめた。
「リゼさん。俺たちの視察は、どうやら単なる事件調査じゃ済まなくなったみたいだ。……俺のこの脳みそ、まだ使ってくれる?」
トアが静かな闘志を宿して微笑むと、リゼさんの琥珀色の瞳に、今度は狂信的なまでの歓喜の光が灯った。
「もちろんだ、トア。貴方が盤面を描くなら、私はその通りに世界を切り裂く剣になろう。貴方を脅かす北の影、すべて私が圧殺して見せる!」
昂る感情を抑えきれず、リゼさんの竜耳がピコピコと激しく動き、尻尾が再び床をペチペチと叩き始める。その様子を見て、グレン殿は「いやぁ、本当にいいコンビだわ。ごちそうさま」と肩を揺らして笑うのだった。
眠りから覚めた天才軍師の頭脳と、彼を溺愛する最強の半竜。二人の視線はすでに、軍学校のさらに奥、仕組まれた暴走事件の本質へと向いていた。




