第39話 特別講義への登壇
翌朝、帝国中央軍事学校のシンボルでもある大理石造りの特別講義室は、開講の一時間も前から、異様な熱気と奇妙な緊張感に包まれていた。
階段状に整列した座席を埋め尽くしているのは、帝国の未来を担うと目される若きエリートたちだ。
高慢な貴族の血を引き、将来は各騎士団の中枢を担うことが約束された特別クラスの生徒たち。そして、若くしてその才を認められ、教壇に立つことに強烈な自負を持つ気鋭の教官たちである。
「聞いたか? 今日の特別講義には、あの『氷の女公爵』が来られるそうだ。」
「近衛騎士団長自らの視察か。だが、噂では……先の政変で暗躍したという、例の車椅子の男も連れてきているらしいぞ?」
「フン、所詮は歩くこともできんしがない元書記官だろう。ルードヴィヒ皇子の失脚も、女公爵の武力を背景にした小細工に過ぎん。ここが帝国の武の最高学府であることを、思い知らせてやるべきだ。」
講義室のあちこちで、俺に対する冷ややかな侮蔑と、反発の混じった囁き声が交わされていた。彼らにとって、五体満足で剣を振るうことこそが至高であり、両足が動かない文官など、守られるだけの弱者に過ぎない。
そのざわざわとした空間の扉が、静かに開いた。
室内の空気が、一瞬で凍りついた。誇張ではなく、本当に窓ガラスに微かな霜が降りるほどの絶対零度の魔力が、入り口から流れ込んできたのだ。
リゼさんがゆっくりと、俺の特製の車椅子を押して講義室に入ってきた。
神秘的な輝きを放つプラチナブロンドの長い髪を完璧に結い上げ、漆黒と純白の近衛騎士団長の軍服を纏ったリゼさんの横顔は、昨夜の甘い雰囲気など微塵も感じさせない「氷の女公爵」そのものだった。その鋭い琥珀色の瞳は、俺に向けられる無躾な視線のすべてを文字通り切り刻むかのように、教壇の下を鋭く見下ろしている。
俺は、その豪華な車椅子に深く腰掛け、膝の上に数冊の分厚い古文書を載せていた。薄い茶髪の隙間から覗く俺の翡翠色の瞳は、教室内を見渡してその構造と人々の配置を冷静に分析する。
俺の両腕には軽い麻痺が残っている。車椅子の手すりを握る指先は僅かに震えていたが、俺の心は至って静かだった。
リゼさんは教壇の最前列、臨時に用意された特等席へと俺の車椅子を誘導した。彼女は俺のすぐ背後に影のように寄り添い、その手はいつでも俺の車椅子を支え、あるいは俺に危害を加えようとする者を即座に圧殺できるよう、大剣の柄の近くに置かれている。
講義室の最上段の見学席には、中央騎士団長のグレン殿と、その副団長ゲイル殿、そして腕を組んだエステル辺境伯が腰を下ろしていた。
「――では、本日の特別講義を始めます。」
教壇に立ったのは、三十代前半ほどの若い教官だった。仕立ての良い教官服を着こなし、いかにも自信家といった風風の男だ。彼はライン公爵家の残党――つまり、先の事件で没落したライン家の息がかかった有力貴族の派閥に属する男だった。当然、ルードヴィヒ皇子を失脚に追い込んだ俺たちに対して、激しい敵意を抱いている。
教官は教科書を開き、形式的な講義を始めたが、その視線は何度も俺の車椅子へと向けられていた。そして、講義が中盤に差し掛かった頃、彼はわざとらしくペンを置き、勝ち誇ったような薄笑みを浮かべて俺を見下ろした。
「……さて、本日は大変名誉なことに、先の政変でレオンハルト皇子の『知恵袋』として動かれたという、ヴァルハイト公爵閣下の由緒正しき婚約者、トア・レンバート殿がお越しだ。」
教官の言葉に、生徒たちの視線が一斉に俺へと集まる。
「せっかくの機会だ。実戦における国際法、特に『隣国ガルディニアとの国境紛争時における戦時国際古法』の適用について、高名な元書記官であられるトア殿の、机上の空論ではない高見を拝聴したいものだが……いかがかな?」
あからさまな挑発だった。
ガルディニア王国との国境問題は、現在の帝国にとっても極めて繊細で難解な政治的火種だ。武官である生徒たちですら答えを持ち合わせていない難問を、わざわざ「机上の空論」と前置きして俺に振ったのだ。答えられなければ、ヴァルハイト公爵家の婚約者として全校生徒の前で大恥をかくことになる。
その瞬間、俺の背後にいるリゼさんの周囲の空気が、爆発的にひび割れた。
彼女の琥珀色の瞳が瞬時に竜の割れ目へと変化し、プラチナブロンドの髪の隙間から、怒りで逆立った竜耳が飛び出す。軍服の裾からは太い尻尾が現れ、石造りの床を「ドゴォン!」と激しく叩いて凄まじい亀裂を走らせた。
「貴様……私のトアを侮るか。その不敬な舌、今すぐ根元から引き抜いて――」
リゼさんの本気の殺気が講義室全体を押し潰し、若い教官は恐怖で顔を真っ青にしてガタガタと震え出した。生徒たちも呼吸を忘れ、圧倒的な半竜の武力に平伏しかけている。
だが、俺は少し麻痺の残る右手をすっと持ち上げ、背後のリゼさんの軍服の袖を優しく引いた。
「リゼさん、大丈夫。俺に答えさせて?」
「ト、トア……? しかし、この無礼者が貴方を……」
俺が瞳を向けて穏やかに微笑むと、リゼさんの殺気は一瞬で霧散した。
「う、うむ、貴方がそう言うなら……」
リゼさんは一瞬で顔を真っ赤にし、竜耳をフリフリと揺らしながら、恥ずかしそうに尻尾を自分の脚に巻き付けた。その劇的な変化に、最上段のグレン殿が「ぶっ」と吹き出す声が聞こえた。
俺は車椅子の上で上体を僅かに起こし、教壇の教官へと視線を戻した。俺の翡翠色の瞳には、動揺も怒りもなく、ただ深い理知の光だけが宿っていた。
「教官。貴殿の問いに対する答えですが……その前提にある二つの致命的な誤謬を指摘させていただいてもよろしいですか?」
「な、何だと……? 誤謬だと!?」
恐怖から怒りへと表情を変えた教官に対し、俺は膝の上の古文書に目を落とすことすらなく、淡々と、しかし確固たる声で語り始めた。
「まず第一に、貴殿が念頭に置いているであろう、我が帝国中央騎士団が採用している国境封鎖基準――三十六年前の『エールン協定』の第十四条第三項。そこには『国境線の定義は、過去のいかなる特権的公法をも上書きする』と明記されています。もしガルディニア側が、かつての『聖王暦二百年における大陸公法』を盾に不可侵領域の再定義を要求してきたとしても、それは百二十年前に締結された『ガラル条約』によってすでに法的に失効している。これが一つ目」
俺の脳内には、古文書館で読み漁った数万冊の記憶が、完璧な索引とともに展開されていた。
「第二に、ガルディニア王国がその古法を主張すること自体が不可能です。なぜなら、聖王暦二百十二年に当時のガルディニア国王カラビスが、教会に対して『大陸公法の永続的放棄』を誓約した書簡が、カーラス公文書館の第三地下書庫、第百四十七棚に現存しているからです。そこにはガルディニア王家の血印が明格に押されている。国際法上、一度放棄した権利を国内の都合で再主張することは『禁反言の原則』に抵触します。」
講義室内が、水を打ったように静まり返った。
「な……、カーラスの秘匿書簡だと……!? そんなもの、一介の書記官が知るはずが――」
「俺は元書記官ですから」俺は静かに言い放った。「帝国の古文書館にある『ガルディニア王国外交史概録』の第七巻、三百二十ページを開いてご覧なさい。貴殿が今朝、その知識を仕入れたであろう教科書の裏付けとして、すべて記載されています。……もしお望みなら、今ここでその条文を、原文の旧ガルディニア語で、暗唱してみせましょうか?」
教官は力なく口を回したまま、一歩も動けなくなった。生徒たちも、他の教官たちも、完全に言葉を失っていた。歴史、外交、国際法、そして他国の秘匿情報までを瞬時に脳内で結合させ、完璧な論理戦術として構築する――目の前にいる車椅子の青年が、紛れもない「化け物」であることを、その場にいる全員が理解した瞬間だった。
最上段で見学していたエステル辺境伯が、深く感心したように小さく頷いた。
「……見事なものだな。剣を抜かずして、敵の論理を完全に破滅させた。グレン、あの男を敵に回すなよ。盤面ごと消されるぞ。」
「へぇ……」グレン殿もいつものお調子者の笑みを消し、鋭い目で俺を見つめていた。
「面白いじゃん、トアくん。リゼが惚れ込むわけだわ。」
俺は教官が絶句しているのを見届けると、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「軍事とは、ただ剣を振るうことだけではありません。法と歴史を武器に、戦う前に勝利の盤面を整えること。それもまた――」
そこまで言いかけた、その時だった。
俺の視界が、唐突にぐにゃりと歪んだ。
翡翠色の瞳から、すっと光が消えていく。急速に脳が冷えていき、思考の糸がぷつりと途切れる感覚。
(あ……クソ、ここで、か……)
拉致事件の後遺症――脳への急激な過負荷が引き起こす、予告のない「突発的な昏睡」の発作。俺の身体から完全に力が抜け、車椅子の背もたれから、前方へと無防備に崩れ落ちそうになった。
「トア――!?」
教室内から悲鳴に似た声が上がった。車椅子から床へ、麻痺のある肉体が叩きつけられる――誰もがそう思った、その刹那。
――ドォンッ!!!
講義室の床が、激しい衝撃音とともに激しく揺れた。あまりの速度に、周囲の人間には何が起きたのか視認すらできなかった。ただ、空気の破裂音とともに、凄まじい突風が教壇を吹き抜けた。
気がついた時には、俺の身体は床に落ちる前に、プラチナブロンドの髪から溢れ出る圧倒的な魔力を纏ったリゼさんの、強靭な両腕の中に完璧に受け止められていた。彼女の足元の石床には、音速を超える踏み込みによって蜘蛛の巣状の亀裂が深く刻まれている。
「トア! トア、しっかりして……!」
リゼさんの声は、先ほどまでの冷徹な響きとは打って変わり、酷く動揺し、涙に暮れるように震えていた。彼女は俺を自分の胸へと強く抱き寄せ、その細い首筋に指を当てて脈を確認する。俺はすでに完全な昏睡状態に入っており、ただ規則正しい寝息を立てているだけだったが、リゼさんの琥珀色の瞳は激しい怒りと過保護な狂気で満たされていった。
「……私のトアに、これ以上の負荷をかけた者は、誰であれ私がその一族ごと根絶やしにする。」
低く、地を這うようなリゼさんの声が、講義室の全員の背骨を凍りつかせた。彼女の竜耳は完全に警戒態勢をとり、太い尻尾が怒りで床を打ち据えている。
トアの圧倒的な「知性」と、それを守るリゼさんの常軌を逸した「武力」と「溺愛」。
その二つが揃った時の絶対的な恐怖を、軍学校の全エリートたちの脳裏に深く刻み込みながら、特別講義は混沌の中で幕を閉じた。
そして、眠りについた俺の裏で、軍学校に巣食う不穏な影が動き出そうとしていた。




