第38話 歓迎の晩餐と元団長の眼光
軍学校の応接室に用意された晩餐の席は、豪華な料理が並んでいるにもかかわらず、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
俺は、ヴァルハイト公爵邸から持ち込んだ特製の車椅子に腰掛け、静かにその盤面を観察していた。
俺の両足は完全に動かない。
だが、幸いにも軽い麻痺が残る程度で済んだ両手を使って、ゆっくりとスープスプーンを口元へ運ぶ。
指先が僅かに震えるのを、隣に座るプラチナブロンドの髪の婚約者――リゼさんが、片時も目を離さずに見守っていた。
「トア、無理をするな。私が食べさせてあげようか? ほら、あーん、だ」
リゼさんは俺の前に身を乗り出し、美しい琥珀色の瞳を潤ませながらスプーンを差し出してきた。
他国からは「氷の女公爵」と恐れられる帝国近衛騎士団長が、俺の前でだけは見事なまでの「恋する乙女」になる。
感情の昂りに合わせて、プラチナブロンドの隙間から夜色の竜耳がぴょこぴょこと小刻みに揺れ、軍服の裾からは太い竜の尻尾が覗いて床をパタパタと叩いていた。
「ありがとう、リゼさん。でも大丈夫、これくらいは自分でできるよ。」
俺が瞳を和らげて微笑むと、リゼさんは「う、うむ……」と顔を真っ赤にして、名残惜しそうに竜耳をパタパタと動かしながら席に戻った。
その一連のやり取りを、正面の席から呆れたような目で見つめている男たちがいた。
「おいおい、ゲイル。俺は幻覚でも見てるのかい? あのリゼが、まるで拾われたばかりのトカゲみたいに大人しくなっちまってさぁ。」
中央騎士団長のグレン殿が、相変わらずの軽い調子でワイングラスを傾ける。
だが、その隣に座る男――グレン殿のさらに上座に座る老将の放つ威圧感に、俺は密かに息を呑んでいた。
エステル辺境伯。
グレン殿やゲイル殿、そしてリゼさんの軍学校時代の恩師であり、元中央騎士団長。
帝国南端を治めるその武人の双眸は、鋭く冷徹に、車椅子の俺を射貫いていた。
「……トア・レンバートと言ったな?」
地響きのような低い声が、応接室の空気を引き締める。
「先の政変において、レオンハルト皇子の裏方に回り、ルードヴィヒ皇子を合法的に罠に嵌めたという『古文書館の頭脳』。それがお前か?」
(嵌めたというかどちらかというと嵌められたんですけどね。)
「はい。元書記官のトア・レンバートです、辺境伯閣下。」
俺はスープスプーンを置き、真っ直ぐに老将へと目を向けた。
両足が動かず、肉体的な武力を持たない俺が、この歴戦の怪物を前にして示せるのは、ただ一つ。
「怯まぬ理性」だけだ。
「リゼが男を連れてくると聞いた時は、ヴァルハイト家も衰退したかと思ったが……」
エステル辺境伯は腕を組み、フンと鼻を鳴らした。
「五体の満足な軟弱者よりも、その車椅子の男の方が、よほど座った目をしている。グレン、お前もうかうかしていられんぞ。この男の『脳』は、お前の聖騎士としての武力すら、盤面の上でチェスの駒のように転がしかねん。」
「へぇ、オヤジ殿がそこまで褒めるなんて珍しいね?」
グレン殿がニカッと笑い、俺に視線を向けた。
その瞳の奥には、昼間の軽いノリとは違う、鋭い武人の計算が隠されている。
「まぁ、俺としても、リゼが文字通り命懸けで溺愛する『旦那様』の実力は気になるねぇ。トアくん、明日は我が軍学校の精鋭たちが集まる特別クラスの講義があるんだ。退屈しのぎに、見学していかないかい?」
「特別講義、ですか?」
「ああ。生意気な貴族のガキどもや、小難しい教科書を丸暗記しただけの若い教官が集まる場所さ。元書記官の君から見て、今の軍学校の『知性』がどれほどのものか、教えてやってほしいんだよね。」
それは、あからさまな試練だった。
俺という存在が、本当にヴァルハイト公爵家の、そしてリゼさんの隣に立つに相応しい人間なのか。
軍学校という武の最高学府が、俺の「知性」を値踏みしようとしているのだ。
俺が答えるより早く、隣のリゼさんの周囲の空気が一瞬で絶対零度へと急降下した。
「グレン、貴様……トアをその不躾な連中の前に晒す気か? 私のトアに恥をかかせるような真似をすれば、貴様の中央騎士団ごと圧殺するぞ...。」
リゼさんの琥珀色の瞳が竜の割れ目へと変化し、本気の殺気が吹き荒れる。
頭の上の竜耳が怒りで逆立ち、尻尾が床を激しく叩いた。
「あはは、リゼさん、落ち着いて」
俺は少し麻痺の残る右手を伸ばし、リゼさんの軍服の袖をそっと引いた。
「俺なら大丈夫だよ。元書記官として、帝国の未来を担う人たちがどんな勉強をしているのか、純粋に興味があるんだ。グレン団長、その講義、ぜひ見学させてください。」
俺が微笑みながら言うと、リゼさんの殺気は一瞬で霧散した。
「ト、トアがそこまで言うなら……。だが、私が必ず後ろに控える。不敬な輩がいれば、その場で首を撥ねるからな。」
「うん、リゼさんが後ろにいてくれるなら、俺は世界で一番安全だよ。」
そう答えると、リゼさんはまたしても顔を真っ赤にして、プラチナブロンドの隙間から耳をピコピコと動かした。
その様子を見て、ゲイル殿が深くため息をつき、グレン殿は「いやぁ、傑作だ」と肩を揺らして笑っている。
しかし、正面のエステル辺境伯だけは、俺の瞳をじっと見つめたまま、静かにワインを口に運んでいた。
(明日の講義……ただの見学では終わらないだろうな)
俺は膝の上の毛布の下で、まだ自由の利かない両脚の感覚を確かめながら、明日の盤面をどう動かすべきか、脳内で静かに古文書の記憶を紐解き始めた。




