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第37話 軍学校の門をくぐる車椅子

 ヴァルハイト公爵邸を発った特製の魔導馬車は、帝都の喧騒を抜け、緩やかな丘陵地帯に築かれた「帝国中央軍事学校」を目指して滑るように進んでいた。


車内には、精神安定の薫香が微かに漂い、オルレアン公爵家秘伝の三重結界によって、石畳の凹凸からくる振動は完全に遮断されている。


トア・レンバートは、座席の正面に固定された最高級のカシミア毛布に包まれながら、窓外を流れる新緑の景色を眺めていた。

彼の翡翠色の瞳には、穏やかな光が宿っている。


「本当にすごい馬車だね。俺の軽い麻痺が残る腕でも、全く揺れを感じない。まるで自分の部屋にいるみたいだ。」


「当然だ。貴方の身体に万が一のことがあってはならないからな。」


トアの隣にぴったりと座るアルテリゼは、真剣な顔で頷いた。

そのプラチナブロンドの美しい髪は車内の灯りを受けて神秘的に輝き、琥珀色の瞳はトアの些細な表情の変化も見逃さないよう注視されている。


リゼの手は、自然な動作でトアのまだ少し頼りない右手を包み込んでいた。

トアが「リゼさん」と呼ぶたびに、彼女の背後で衣服に隠された竜の尻尾が、嬉しさを堪えきれずにソファーのクッションを微かにペチペチと叩いているのを、トアは知っていた。


「……トア、本当に軍学校へ行くのが楽しみなのか? あそこは荒くれ者の武官ばかりが集まる、薄汚れた場所だぞ。」


「あはは、薄汚れてはいないと思うよ。帝国の精鋭を育てる最高学府じゃないか。それに、リゼさんが十代の頃にどんな風に過ごしていたのか、その片鱗に触れられるのが俺は嬉しいんだ。」


「――ッ!」


トアが瞳を優しく細めて微笑むと、案の定、リゼの白い頬が瞬時にカッと赤くなった。


感情の昂りに連動して、プラチナブロンドの髪の隙間から、竜の耳がぴょこんと飛び出す。


「わ、私の過去など、ただ剣を振り回していただけの退屈なものだ! それより、今の私をもっと見てほしい……いや、違う、昔の私を知りたいと言ってくれるのは、その、妻(予定)として大変誇らしく、愛おしいというか……!」


リゼは完全にテンパってしまい、琥珀色の瞳を潤ませながら、空いている方の手で自分の竜耳を必死に引っ込めようとペタペタと押さえている。

トアの前だけで見せる、この「氷の女公爵」らしからぬ初心な乙女の姿が、トアにとっては世界で一番愛らしかった。


「うん、今のリゼさんも、昔のリゼさんも、俺にとっては全部特別だよ?」


トアが指先で、そっと彼女の手を握り返すと、リゼの尻尾の動きはさらに激しくなり、ソファーの背もたれを強打した。


そんな甘やかな空気で満たされた馬車は、やがて巨大な大理石の正門をくぐり、軍学校の広大な前庭へと滑り込んだ。

馬車が完全に停止すると、車外から「近衛騎士団長、アルテリゼ閣下の御到着である!」という儀仗兵の鋭い号令が響く。


リゼは一瞬で「氷の女公爵」の冷徹な仮面を被り直した。

竜耳と尻尾を完璧に体内に収め、琥珀色の瞳に他者を寄せ付けない絶対的な威圧感を宿す。


まず馬車の扉が開き、メイド姿のシエラが音もなく降りて車椅子の準備を整える。

続いて、リゼがトアを横抱きにしてゆっくりと降りてきた。


前庭に整列していた若き教官やエリート生徒たちの間に、一斉に不穏なざわめきが走った。


「……おい、あれを見ろ。氷の女公爵が、男を抱いているぞ?」


「噂の婚約者か? 薄い茶髪の……ずいぶん線の細い文官だな。両足が動かないというのは本当だったのか?」


「帝国最強のヴァルハイト家が、あんな病弱な男を迎え入れるとは……」


貴族主義の根強い軍学校において、身体の不自由なトアに向ける視線は、決して好意的なものばかりではなかった。


侮蔑、憐憫、そして好奇の目。


その不躾な視線を感じ取った瞬間、リゼの周囲の空気が一気に凍りついた。

彼女の瞳が一段と冷酷に細まり、全方位に向けて圧倒的な殺気(プレッシャー)が放たれる。

並み居る生徒たちが、その重圧に息を呑んで数歩後退りした。


「ふん、相変わらず挨拶代わりに周囲を凍らせて歩くねぇ、リゼ?」


その緊迫した空気を破ったのは、ひどく軽薄で、しかしよく通る男の声だった。

人だかりを割って歩いてきたのは、見事な体躯を誇る一人の青年。



グレン・スチュアート

――帝国中央騎士団長であり、リゼと同じく半竜の血を引く、帝国屈指の聖騎士。そしてリゼの軍学校時代の先輩である。



「よぉ、お出ましご苦労さん、氷の女公爵。……お、そっちの車椅子の可愛い男の子が、噂の『旦那様』かい?」


グレンはお調子者の笑みを浮かべ、トアの車椅子の前にしゃがみ込むと、トアの顔を覗き込んできた。


「へぇ、翡翠色の綺麗な目をしてる。線の細い美人さんだねぇ。リゼにはもったいないくらいだ。まだ婚約中なんだろ? なんなら俺が奪い取っちゃおうか?」



「――グレン・スチュアート」



地獄の底から響くようなリゼの声。

リゼのプラチナブロンドの髪が魔力で逆立ち、その琥珀色の瞳は完全に縦長の竜の割れ目へと変化していた。

彼女の手が、腰に帯びた大剣の柄へと伸びる。本気の殺気だった。


「ちょ、ちょっと待てグレン団長! リゼも剣を収めろ! ここを更地にする気か!?」


慌てて二人の間に割って入ったのは、帝国中央騎士団副団長であり、リゼの同期であるゲイル・フォン・エステルだった。

苦労人気質の彼女は、額に冷汗を浮かべながら、必死にグレンの襟首を掴んで引き離そうとする。


周囲の生徒たちが二人の団長の衝突に恐怖で硬直する中、車椅子の上のトアだけは、至って冷静だった。


トアは、グレンの軽薄な態度の裏にある、一寸の隙もない足運びと、周囲の状況をすべて把握している鋭い視線を見抜いていた。

この男はお調子者を演じているが、間違いなく「仕事ができる優秀な男」だ。


トアは少し麻痺の残る右手をすっと挙げ、リゼの軍服の袖を優しく引いた。


「リゼさん、落ち着いて。グレン団長は、俺たちを歓迎してくれているだけだよ」


「しかしトア、この男は貴方を侮辱し、奪うなどと――」


「俺はリゼさんの婚約者だよ? 誰にも奪われやしないさ。」


トアが瞳を真っ直ぐに向けてそう言うと、リゼの殺気は一瞬で霧散した。


「う、うむ……貴方がそう言うなら……」


リゼはまたしても顔を真っ赤にし、周囲に他の男たちがいるのにもかかわらず、プラチナブロンドの隙間から竜耳をピコピコと出してしまう。

尻尾も軍服の中でパタパタと暴れ、彼女の「乙女モード」が完全に露呈していた。


その劇的な変化を目の当たりにしたグレンは、ぽかんと口を開けた後、爆笑した。


「ぎゃははは! おいゲイル見ろよ! あの『鉄血の氷人形』が、一言で骨抜きにされてやんの! 最高の旦那様じゃねぇか!」


ゲイルは深くため息をつき、トアに向かって丁寧に一礼した。


「改めまして、トア・レンバート殿。中央騎士団副団長のゲイルです。……うちの団長が失礼を。そして、リゼを人間らしくしてくれて、同期として感謝します。」

「俺の方こそ、お久しぶりです、ゲイル殿。そして初めまして、グレン団長。」


トアは車椅子の上で、できる限り礼儀正しく頭を下げた。


「元書記官のトア・レンバートです。今回の魔導兵器暴走事件の調査、俺の知識が少しでもお二人の役に立てば嬉しいです。」


トアのその物怖じしない態度と、深い理知を湛えた翡翠色の眼光に、グレンは一瞬だけ笑みを消し、値踏みするような視線を向けた。


(……ただの病弱な文官じゃねぇな、コイツは)


「よし、挨拶はここまでだ!」


グレンは再びニカッと笑うと、大げさな身振りで校舎を指し示した。


「まずは事件のあった演習場を案内するよ。帝国の未来を担う天才軍師殿の、お手並み拝見と行こうじゃねぇか?」


 こうして、トアとリゼは、曲者揃いの軍学校の内部へと足を踏み入れるのだった。


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