第36話 女公爵の過保護な旅支度
ヴェルスーン帝国の首都に居を構えるヴァルハイト公爵邸。
その一画にある広大な主寝室は、早朝から独特の緊張感と、それに相反するような至高の甘い空気に包まれていた。
窓外から差し込む朝光が、豪奢な天蓋付きのベッドを照らし出している。
その中央で、一人の青年が静かに目を覚ました。
トア・レンバート。
かつては帝国古文書館のしがない一書記官であり、現在は先の政変を経て、帝国最強の半竜「氷の女公爵」アルテリゼ・フォン・ヴァルハイトの、世界で唯一無二の婚約者となった青年である。
「……ん……」
トアが微かに声を漏らし、長い睫毛を揺らす。
彼が自らの意思で上体を起こそうとすると、両腕にはまだ鉛のような重苦しさがまとわりついていた。
先の拉致事件での後遺症。
トアの両足は運動機能を完全に喪失しており、二度と自らの力で立つことはできない。
一方で、両腕は幸いにも軽い麻痺が残る程度に留まっていた。
それでも、少しでも重い物を持とうとすれば指先が震え、日常生活の多くの場面で他者の手を借りねばならないことには変わりなかった。
帝国随一とも思われる圧倒的な知性を宿した頭脳に支払われた、あまりにも重い代償。
トアが、朝日に透ける自らの薄い茶髪を僅かに揺らし、翡翠色の瞳を瞬かせた、その時だった。
「目が覚めたか、トア」
鼓膜を震わせたのは、鈴を転がすように美しい、しかしどこか絶対的な強さを秘めた低音のソプラノ。
トアが視線を向けると、そこにはすでに完璧に着替えを済ませ、ベッドの傍らに腰掛けて自らを見下ろしている最愛の婚約者――アルテリゼ(リゼ)の姿があった。
神秘的な輝きを放つプラチナブロンドの長い髪を美しく結い上げ、帝国近衛騎士団長の正装である漆黒と純白の軍服に身を包んだ彼女は、他国からは「冷酷無比の氷の女公爵」と恐れられる存在だ。
その鋭くも美しい琥珀色の瞳は、常人ならば射すくめられただけで動けなくなるほどの威圧感を持っている。
だが、トアの前にいる時の彼女は、その通り名とはおよそかけ離れていた。
「おはよう、リゼさん……。今日も綺麗だね。」
「――ッ!?」
トアが微笑みながら紡いだ何気ない言葉に、リゼの白い頬が一瞬で薔薇色に染まる。
他者を排斥するような冷徹なオーラは霧散し、完全に恋する乙女の顔になったリゼは、嬉しさと恥ずかしさのあまり感情が昂ってしまった。
直後、リゼの美しいプラチナブロンドの髪の隙間から、ぴょこんと夜色に輝く竜の耳が飛び出す。
さらに、軍服の裾からは、太くしなやかな竜の尻尾が左右に激しく――まるで嬉しさを隠しきれない犬のようにパタパタと揺れ動き、ベッドのフレームに当たって「ゴン、ゴン」と情けない音を立てた。
「綺麗だなんて、そんな……! 貴方にそう言ってもらえるなら、この退屈で硬苦しい正装にも、これ以上ない意味があるというものだ、が……!」
リゼは自分の尻尾が暴走していることに気づき、大慌てで両手で尻尾を押さえ込もうとするが、感情のコントロールが追いつかない。
半竜の血を引く彼女は、トアの前でだけ、どうしてもこうして可愛い部位が露出してしまうのだった。
その美しい琥珀色の瞳は、恥ずかしさで潤んでいる。
トアはまだ麻痺の残る右手を少しだけ持ち上げ、愛おしそうにリゼの頬に触れた。
「あはは、尻尾、すごく喜んでるね。俺は嬉しいよ、リゼさん。」
「う、うるさいぞトア……! 貴方が朝からそんな格好良い顔で笑うからだ……!」
リゼは真っ赤になりながらも、トアの頭の下にそっと腕を滑り込ませた。
半竜の肉体は、成人男性一人など羽毛のように軽く持ち上げることができる。
だが、その力加減は驚くほど繊細だった。
トアの身体に僅かな負担もかけぬよう、完璧な重心移動で彼の状態を起こし、ふかふかの枕を背中に当てがう。
「具合はどうだ? どこか痛むところは? 頭痛や、胸の苦しさはないか?」
「大丈夫だよ。いつも通り、少し身体が重いだけさ。本当に心配しすぎだよ、リゼさん」
「心配せぬはずがないだろう! 貴方は私の未来の夫であり、私の命、私の世界のすべてなのだから!」
ブンブンと再び激しさを増す尻尾を押さえながら、何一つ照れることなくそう言い放つリゼの過保護っぷりは、婚約が成立して以来、日を追うごとに増していた。
特に、トアが「突発的な昏睡」に陥るようになってからは、リゼは一歩たりともトアを自分の目の届かない場所に置こうとしなかった。
今回の「帝国中央軍事学校」への視察も同様である。
軍学校の演習場で、宮廷魔導師団の旧式魔導兵器が暴走したという不審な事件。
皇帝ガルディアから直々に近衛騎士団長たるリゼへと調査の勅命が下った際、リゼが発した第一声は「トアを同行させる。彼の車椅子の移動に適した最高級の馬車と、緊急時用の天蓋付きベッドを直ちに手配せよ」というものだった。
周囲の文官たちは「軍学校の不穏な調査に、身体の不自由な民間人を同行させるなど正気の沙汰ではない」と引き止めたが、リゼの「ならば誰がトアを突発的な昏睡から受け止めるのだ? 貴様らか? 貴様らの貧弱な腕で、私のトアの頭を床に打ち付けないと保証できるのか?」という凄まじい殺気を孕んだ一喝により、すべての反論は文字通り圧殺されたのだった。
「トア、今日の視察だが……やはり私が一人で行くべきではないか? 往復の馬車だけでも、貴方の細い身体には障るかもしれん。もし移動中に発作が起きたら……」
「リゼさん、俺なら本当に平気だよ。」
トアは翡翠色の瞳を優しく細めて微笑んだ。
「軍学校には、君の同期のゲイル殿や、先輩のグレン団長もいるんだろう? 昔の話を聞けるのを楽しみにしているんだ。それに、俺の知識が事件の調査に役立つかもしれない」
「……貴方がそう言うのなら」
リゼはトアの頬に愛おしそうに指先を滑らせた。
トアが望むなら、世界の果てであっても車椅子を押して連れて行く。
それがリゼの、歪なまでに純粋な決意だった。
コンコン、と控えめな、しかし完璧なリズムのノック音が室内に響いた。
「リゼ様、トア様。お目覚めのところ恐れ入ります。出発の準備が整いました。」
扉の向こうから聞こえたのは、ヴァルハイト公爵邸を取り仕切る執事長、ハンス・ロバーツの声だった。
リゼが許可を出すと、静かに扉が開いた。
入ってきたのは、初老ながらも一切の隙のない姿勢を保ったハンスと、その後ろに控えるメイド長のリサ・ローレンツ。
そして、トアの移動に欠かせない、ヴァルハイト家の魔導技術の粋を集めて作られた最新型の車椅子だった。
「ハンス、リサ。馬車の設えは完璧か?」
リゼは瞬時に「氷の女公爵」の仮面を被り直し、琥珀色の瞳に冷徹な光を宿して問いかける(頭の上の竜耳はまだ少しピコピコと動いていたが)。
ハンスは恭しく一礼し、手慣れた様子で報告を始めた。
「はっ。トア様のお身体への負担を最小限に抑えるため、馬車のサスペンションにはオルレアン公爵家秘伝の『衝撃吸収』の結界術式を三重に展開させております。また、車内は常にトア様に最適な体温を保つよう、魔導具による温度管理を徹底いたしました。」
「当然だ。リサ、医務室の備品と、トアの容態が急変した際の聖水、それから柔らかい毛布の予備は?」
メイド長のリサが一歩前へ出る。
「抜かりございません、閣下。大魔導師エイルハルト様が特別に調合された、精神安定の薫香も馬車内に備え付けてございます。トア様が万が一、突発的な昏睡に入られた際にも、即座に深い休息へ移行できるよう、最善の体制を敷いております。」
ヴァルハイト公爵邸の使用人たちは、主であるリゼの「トア第一主義」を完璧に理解し、それを高度な技術で具現化するプロフェッショナルたちだった。
彼らにとって、トアの安全を守ることは、リゼの機嫌――ひいては公爵邸、しいては帝国の平和を守ることに直結しているのを知っているからだ。
「よし。トア、着替えをしよう。」
リゼはハンスたちからトアの衣服を受け取ると、メイドたちに手伝わせることなく、すべて自分の手でトアの着替えを始めた。
軽い麻痺の残るトアの腕を優しく労わるように袖に通し、ボタンを一つずつ丁寧に留めていく。
その手つきは、戦場で大剣を振るい、数々の魔獣を屠ってきたものとはとても思えないほど、繊細で、温かかった。
「リゼさん、本当に器用だね?」
「貴方のこと限定だ。他の有象無象の着替えなど、引きちぎってしまう自信がある。」
「はは、手加減してあげてね。」
着替えを終えたトアの身体を、リゼは再び軽々と抱き上げ、車椅子へと移した。
特製の車椅子は、トアの動かない両脚が傾かないよう、横側に適度なホールド感のあるクッションが配され、足置きの位置もトアの脚の長さに完璧に合わされている。
リゼはトアの膝の上に、リサから受け取った最高級のカシミアの毛布を丁寧に掛けた。
「完璧だ。世界で最も美しい。」
リゼは満足そうに頷き、トアの額にそっと口づけを落とした。ハンスとリサは、その光景をいつものこととして、表情一つ変えずに見守っている。
「では、出発しよう。……シエラ」
リゼが部屋の隅の影に向かって短く呼びかける。
すると、そこから気配もなく、一人の若いメイドが姿を現した。
シエラ・ハイゼット。
バルトの妹であり、拉致事件でバルトの人質として捕えられていたが、無事救出された。彼女は現在、表向きは公爵邸の優秀なメイドだが、その実態はリゼから秘密裏にトアの「絶対守護」を命じられた、隠密専門の護衛騎士である。
「ここに、リゼ様」
シエラは深く頭を下げた。
『お前の任務は分かっているな。私は現地で調査を行う。グレンやゲイルがいるとはいえ、軍学校内部にどのようなネズミが潜んでいるか分からん。私がトアの側を離れる一瞬、お前は影となり、トアに近づく不審者をすべて排除しろ。』
『御意に。この命に代えましても、トア様にお指一本触れさせはいたしません。』
二人はトアには分からないように密かに念話魔法でやり取りする。
シエラの瞳に、一瞬メイドらしからぬ鋭い暗殺者の光が宿っていた。
「リゼさん?シエラちゃんと目を合わせてどうしたの?」
トアが苦笑しながら言うと、リゼはトアのまだ少し頼りない手をそっと握りしめた。
「何でもないよ、トア。」
その言葉に含まれた、絶対的な狂気と、底なしの愛。
トアは、自分のために世界を敵に回すことを微塵も躊躇わないこの美しい婚約者の、少し冷たい手を僅かに動く指先で握り返した。
リゼはその微かな筋肉の緊張から、トアの愛を正確に感じ取り、ひときわ嬉しそうに琥珀色の瞳を細めて――またしてもプラチナブロンドの隙間から耳を覗かせ、尻尾をパタパタと揺らすのだった。
「さあ、行こう。我が最愛の軍師殿。貴方のその素晴らしい頭脳で、軍学校に巣食う愚か者たちを、暴いてみせてくれ?」
ハンスが恭しく扉を開け、リゼがゆっくりとトアの車椅子を押し始める。
その後ろを、影のようにシエラが従う。
こうして、後に軍学校の歴史に、そして帝国の貴族たちに「知性と武力の絶対的な恐怖」として深く刻まれることになる、氷の女公爵と車椅子の天才の『過保護な視察』が、静かに幕を開けた。




