幕間 埃とインクの夜想曲――影の庇護者の誕生、秘匿の誓い
本日も2話連続投稿です!
その夜を境に、二人の関係は「奇妙な友情」へと変貌していった。
レオは古文書館を訪れる度に、世界中の複雑な未解決事件や、古代の暗号、帝国の腐敗の書類をトアの前に持ち込んだ。
トアはそれを「面白いパズルですね」と笑いながら、おっとりと、しかし一瞬で解決していった。
トアの知識と包容力は、王宮の泥沼の権力闘争の中で孤独に戦っていたレオンハルトにとって、唯一の救いであり、心の安らぎの場所になっていったのだ。
しかし、トアの有能さが表に出れば、すべてが終わる。
「トア。お前が今日解読した『主計局の過去の監査報告書』だが……二度と、他の誰にも見せるな。館長にも、同僚にもだ。」
ある日、レオは真剣な面持ちでトアの肩を掴んだ。
「え? でも、これ、監査の間違いを直しておかないと、国庫の計算が狂っちゃいますよ?」
「狂わせておけ。お前が正しい数字を出した瞬間、お前の首は王宮の処刑台に飛ぶと思え。」
レオンハルトは、トアの知らないところで、彼の全権力と影の暗殺部隊を動かし始めた。
トアが古文書館で提出するすべての公式な報告書を、レオンハルトが裏でわざと「凡庸で間違いだらけの、退屈な書類」へと書き換え、偽造した。
トアの異常な知性に気づきかけた上司や同僚がいれば、影の部隊を使って記憶を操作し、あるいは配置換えを行って、徹底的にトアの存在をカモフラージュした。
「レオさんは、本当に心配性ですねぇ。俺なんて、ただの冴えない人間なのに。」
トアは、自分がどれほど強固な「影の檻(過保護な防衛網)」に守られているかも知らず、いつもレオのために手作りの夜食や、胃に優しい薬草のお茶を淹れて微笑んでいた。
「うるさい。お前は危機感がなさすぎるんだ。どちらが『お腹を空かせた迷子』か分からないな、トア。」
レオはトアの淹れた温かいお茶を啜りながら、冷徹な夜色の瞳を、その時だけは優しく細めるのだった。
――私が、生涯をかけてこの男の平穏を守る。
世界が彼の知性を狙うなら、私が世界を欺き通してみせる。
それが、孤独な第二王子レオンハルトが、愛しき唯一の友人トアに捧げた、決して本人には明かさない「絶対の誓い」だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
しかし、そんな二人の「秘められた平穏」は、ある日突如として破られることになる。
あの日――三年前の、あの猛烈な大雨の夜だ。
「レオさん、今日は本当に雨が酷いですね。これ、俺の予備の傘です。使ってください。」
「……ふん、余計なお世話だ。」
いつも通り古文書館で言葉を交わし、レオが皇宮の影へと帰還した、そのわずか数時間後。
敵国の呪いを受け、古代竜の血を暴走させたアルテリゼが、泥塗れになって帝都の裏路地にうずくまり、それをトアが「ただの傷病者」として無自覚に看病したのだ。
翌日、トアから「昨日、裏路地で鱗だらけの格好いいお嬢さんを看病したんですよ。」という話を聞いた瞬間、レオンハルトは飲んでいたお茶を本気で吹き出しそうになった。
(アルテリゼ・ヴァルハイトだと!? まさか、あの『帝国最強の半竜』を、この男はただの迷子のように看病したというのか……!?)
レオンハルトの予感は、最悪の形で的中することになる。
竜族の生態において、最弱の部位(逆鱗)を恐れずに無条件で触れてくれた者は、一生に一人だけの「伴侶」となる。
アルテリゼは、レオンハルトがどれほど精巧に張り巡らせていた「トアの隠蔽結界」などお構いなしに、その圧倒的な武力と軍勢を率いて、古文書館の扉をブチ破り、トアを白日の下に引きずり出して求婚してしまったのだ。
「……あの馬鹿女が。私の数年間の苦労を、力任せに台無しにしおって……!」
皇宮の奥深くで、求婚の報せを聞いた第二皇子レオンハルトが、どれほど盛大に頭を抱え、書類を床に叩きつけたかは言うまでもない。
◇◇◇◇◇
ある秋の穏やかな午後、アルテリゼ公爵邸の裏門から、身分を隠すための質素な外套を羽織った一人の青年が、ふらりと姿を現した。
「……相変わらず、ここは防犯結界の密度がおかしいな。私の『黒曜騎士団』の隠密すら、庭園の一歩手前で全員叩き出されたぞ。」
苦笑しながら外套のフードを外したのは、かつて古文書館でトアと本を語り合った「レオ」であり、今や帝国の次期皇帝たる王太子レオンハルトその人だった。
彼が護衛を下がらせ、単身で懐かしい友人の顔を見に庭園へ足を踏み入れた、その瞬間。
ピキ、ピキピキピキ……ッ!!!
「――そこまでにされよ、皇太子殿下。我が夫の極上の睡眠圏内に、許可なく立ち入ることは、たとえ次期皇帝であっても許されん。」
突如として、庭園の気温が物理的にマイナス数十度まで急降下した。
芝生が一瞬にして白銀の霜で覆われ、レオンハルトの高級な革靴の先が地面ごと凍りつく。
目の前に立ちはだかったのは、プラチナブロンドの髪をなびかせ、琥珀色の瞳を完全な竜の縦スリットへと裂いた、公爵閣下――アルテリゼだった。
「……相変わらず容赦のない歓迎だな、アルテリゼ?」
レオンハルトは両手を軽く上げ、凍りついた足元を見下ろして溜息をついた。
「私はただ、謹慎処分を免じ、皇太子へと導いてくれた恩人であり、大切な『友人』に、最高級の茶葉を届けに来ただけなのだが?」
「茶葉だと? 貴様が持ってくるものなど、また不穏な特効薬ではないのかと疑いたくなるな?」
リゼは「竜の耳」を警戒にピコピコと尖らせ、軍服の裾から覗く太い「竜の尻尾」を、ぎりぎりと威嚇のままにうねらせている。
「ハハ、あれは私なりの『最善』だったと言っただろう?」
レオンハルトは皮肉交じりに微笑みながら、リゼの背後へと視線を向けた。
そして、思わず美しい眉をひそめ、呆れたような声を漏らした。
「……というか、アルテリゼ。貴方は一体、何をしているんだ?」
リゼの背後、庭園の大きな長椅子の上には、奇妙な「黒い繭」が形成されていた。
リゼが背中からドサリと引き出した、漆黒の巨大な「竜の翼」。
それが長椅子を完全に包み込み、外敵や風を一切寄せ付けない絶対的な防壁陣地を作り出していたのだ。
そして、その翼の隙間から覗いていたのは、リゼの軍服の上着に幾重にも包まれ、彼女の膝の上ですやすやと眠りこけているトアの姿だった。
「何をしている、だと? 見れば分かるだろう。トアがいま、自己防衛の昏睡(お昼寝)に入られた。だから私は、彼の体温が下が裂けぬよう、我が竜の体温で完璧に包み込み、守護しているのだ。」
リゼは大真面目な顔で、トアの頭を優しく、しかし執拗なまでの過保護さで撫で回している。
「……何分、眠っている?」
「三十四分と、二十秒だ。トアの呼吸の微差から察するに、あと三分と十二秒で目覚められる。」
「秒単位で計測しているのか……。いや、肉体は完治したと聞いていたが、やはりあの『突発的な昏睡』の後遺症は続いているのだな。」
レオンハルトは一瞬だけ、おうたとしての冷徹な仮面を外し、友人を案じるような「レオ」の目でトアを見つめた。トアにこの消えぬ爆弾を残してしまった原因の一端は、ルードヴィヒの陰謀を泳がせていた自分にもある。
その罪悪感が、彼の胸を微かに刺した。
しかし、隣のテーブルに直立不動の姿勢で固まっている副官バルトと、その妹シエラを見た瞬間、王太子の同情は一瞬で消え失せた。
バルトは、トアが淹れてくれたハーブティーのカップを震える手で持ったまま、リゼのプレッシャーに怯えて息を詰まらせている。
その足元には、スコーンの犬(咀嚼音)を一切立てないよう、細心の注意を払って小さく動くシエラの姿があった。
「おい、バルト。貴様らまでなぜそんなに怯えている。」
「は、殿下……! 閣下より『トア様の極上の睡眠を妨げる咀嚼音を立てた者は、国境の荒野へ一ヶ月の遠征』と言い渡されておりまして……っ。殿下も、どうか大きな声は……っ!」
バルトの灰色髪の獣耳が、恐怖でペタンと伏せられている。
「……アルテリゼ。一国の最高権力者である公爵が、一介の書記官の昼寝のために、副官を国境へ飛ばそうとするな。過保護にも程がある。これではどちらが『怪物』か分からんぞ。」
レオンハルトは盛大に溜息をつき、額を押さえた。
かつて王宮で完璧な作戦盤を操り、すべてを支配していた天才政治家も、この「番を溺愛しすぎて理性が物理的にバグっている半竜」の前には、ただの常識人になるしかなかった。
「……ん……。あ、レオ……?」
その時、リゼの大きな軍服の上着の中から、もぞもぞと小さな動きがあった。
トアの瞳がゆっくりと開き、彼は自分の目の前にいる、懐かしい身なりの青年に向かって、少し眠そうに微笑んだ。
「トア……っ! 目覚めたか、我が愛しき夫よ! どこか痛むところは――」
リゼの「竜の耳」が待ってましたとばかりにピコピコと跳ね、太い尻尾が――ポンッ、パタパタパタパタパタ!!!と、長椅子を激しく、歓喜のままに叩き始める。
「大丈夫ですよ、リゼさん。……それより、レオ。王太子様が、そんな安物の外套一枚で、こんなところへ密行してきて大丈夫なんですか?」
トアはリゼの膝の上からよろりと起き上がり、自分のために用意されていた、まだほんのり温かいハーブティーを一口含んだ。突発的な昏睡の後遺症。けれど、目覚めた瞬間の彼の頭脳は、すでに完全に明晰だった。
「ふん、皇太子の執務というやつは、どうにも古文書館の整理ほどには割に合わなくてね。一瞬の隙を突いて逃げ出してきた。……これを持ってきたぞ、トア。」
レオンハルトは、持参した最高級の茶葉の缶をテーブルに置いた。
「わあ、ガラルディアの幻の紅茶葉ですね。ありがとう、レオ。……これ、以前『いつか二人で飲みたいね』って、古文書館の古い記録を見ながら話していたやつだ。」
トアの琥珀色の瞳が、嬉しそうに和らいだ。
レオンハルトはフッと、かつて身分を隠して古文書館の片隅に座っていた頃の、優しい少年の笑みを浮かべた。
「ああ。貴方が私の陰謀を暴いた(ひっくり返した)おかげで、私は今、皇太子としてこの国を正しく導く機会を得た。……その礼だ」
「おい、レオンハルト。トアに馴れ馴れしく『レオ』などと呼ばせるな。そして、私のトアの笑顔を、貴様の政治的な満足感の道具にするな。」
リゼが未だに尻尾をパタパタと威嚇させながら、トアの身体を背後からぎゅっと抱きしめ、レオンハルトを睨みつける。
「ハハ、公爵閣下の嫉妬深さは、帝国の軍事力よりも恐ろしいな。」
レオンハルトは肩をすくめ、椅子に深く腰掛けた。
「トア。貴方にそんな後遺症を残してしまったことは、私の計算の瑕疵だ。……すまなかった。だが、貴方が眠るその瞬間も、あの化け物が世界を滅ぼす勢いで抱きとめてくれるなら、私の心配も杞憂だったようだな。」
「ええ。リゼさんは、いつでも僕を完璧に捕まえてくれますから。……バルトさん、シエラちゃん。新しくお茶を淹れ直しますね。レオも、一緒にスープを食べていきませんか?」
トアの底なしの温かい包容力が、かつて敵対しかけた友、そして自分を愛しすぎる半竜のすべてを優しく包み込んでいく。
身分違いの格差婚。
帝国中が恐れる最強の半竜女公爵は、今日もトアの後遺症に胃を痛めながらも、その圧倒的な過保護さと、かつて冷徹な皇子すらも救ったトアの知性に愛されながら、皇太子をも巻き込んだ、世界で一番甘くて騒がしい幸福な日常を、共に紡いでいくのだった。
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