幕間 埃とインクの夜想曲――書記官トアと、孤独な皇子レオの記録
それは、アルテリゼが古文書館に軍勢を率いて求婚に現れる、さらに数年前のこと。
帝都の片隅に佇む古文書館は、現在よりもさらに寂れ、訪れる者といえば物好きな老学者か、あるいは課題に追われた不真面目な学生くらいのものだった。
しかしながら、書記官トア・レンバートにとって、そこは世界で最も居心地の良い、埃と羊皮紙の匂いに満ちた平和な聖域だった。
「よし、これで100年前の『第四次国境割譲条約』の裏写しは整理完了、と。……それにしても、当時の文官たちの筆跡は本当に癖が強くて困るなぁ。」
トアは、インクで黒く汚れた指先を軽く振りながら、おっとりと呟いた。
彼は、毎日朝から晩まで、誰も読まない古い記録を分類し、ただひたすらに書き写すだけの、退屈で平穏な日々を送っていた。
彼自身、自分の人生はこうして静かに、古い紙の山の中で終わっていくのだろうと、のんきに信じていたのだ。
――コツン、コツン。
外の通りでは夕闇が迫り、館内を照らす魔導ランプがぽつりぽつりと灯り始めた頃。
古文書館の、長年油を差されていない重厚な扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、仕立ては上質だが、意図的に装飾を削ぎ落とした漆黒の外套に身を包んだ、一人の青年だった。
年の頃はトアと同じか、やや若い。
高い鼻梁に、夜の深淵をそのまま切り取ったかのような、冷徹な夜色の瞳。漆黒の髪を短く整えたその青年は、周囲を極めて冷ややかに、値踏みするような目で見回していた。
その立ち姿、そして無意識に洗練された身のこなしは、どう見ても下級平民のそれではない。
しかし、青年は一人、護衛の影すら連れずに、迷いなくトアのデスクへと歩み寄ってきた。
「……ここにある歴史の一次史料、特に『建国期の地脈管理に関する裏記録』の閲覧を求めたい。権限はこれで足りるか?」
青年の声は、低く、しかし驚くほど澄んでおり、同時に他者を寄せ付けない絶対的な拒絶の響きを湛えていた。
彼が差し出したのは、下級貴族の家紋が刻まれた、古びた鉄の通行証だった。
トアはその通行証を手に取り、いつものおっとりした笑顔で首を傾げた。
「閲覧は可能ですよ、レオさん。……あ、お名前、レオさんでいいですよね? この家紋、確か『レオポルト男爵家』の古い印章ですから。」
「……ああ。レオで構わない」
青年――第二皇子レオンハルトは、偽名を受け入れながらも、内心で僅かに眉をひそめた。
この通行証は、彼が自身の正体を隠すためにわざわざ用意した、数あるカモフラージュの一つだ。
普通の書記官なら、紋章の歪みから王族の影を感じ取るか、あるいは恐怖で平伏するはずだった。
だが、目の前の冴えない人間の書記官は、ただのんきに笑っているだけだ。
「では、奥の第三書庫へどうぞ。お探しの年代の資料は、ちょっと埃っぽいですけど、俺が案内しますね。」
これが、帝国の裏の支配者となる冷徹な第二皇子レオンハルトと、後に世界を揺るがす規格外の書記官トアの、すべての始まりとなる「最初の出会い」だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それからというもの、偽名を使う第二皇子「レオ」は、数日に一度、必ず夕暮れ時に古文書館へ現れるようになった。
彼はいつも、他の貴族たちが誰も一顧だにしないような、数百年前の退屈な会計帳簿や、地質調査の記録ばかりを熱心に読み漁っていた。
王位継承権の序列から外され、兄のルードヴィヒの影で「無能な第二皇子」を演じながら、裏で帝国の真の構造(腐敗)を暴こうとしていたレオンハルトにとって、この寂れた古文書館は、最高の情報収集の場だったのだ。
ある夜、レオは山積みの古い地脈調査書を前に、深い溜息をつきながら眉間を押さえていた。
「……やはり、計算が合わん。百年前の『聖戦』以降、帝国の北部に供給されている魔力量と、現地の穀物収穫量の比率が歪すぎる。どこかで数字が操作されているのは確実だが、当時の魔導省の暗号化フォーマット(数式)が複雑すぎて、全容が掴めない……。」
レオンハルトの天才的な頭脳をもってしても、何代にもわたる文官たちが命懸けで隠蔽してきた「国家規模の横領の証拠」を、一人で読み解くのは限界に近かった。
「あ、そこ、ルーンの乗算の順番が前後逆になっていますよ、レオさん。」
不意に、背後からおっとりとした声が響き、温かいハーブティーのカップが机の端に置かれた。
トアだった。
彼はのんきに自分の炭筆を持ったまま、レオの広げていた複雑極まる数式を覗き込んでいた。
「な……っ、貴様、いつから見ていた。それに、乗算が逆だと?」
レオが夜色の瞳を鋭く光らせ、周囲の空気をピリリと緊張させる。
しかし、トアは全く怯む様子もなく、楽しそうにメモ帳を広げた。
「だって、そこの第三項にある『地脈の活性指数』、これは三百年前の『旧ガルディニア王立数術』の暗号フォーマットが使われているんです。当時の文官たちは、国家予算を裏でプールするために、わざと『余り』が出るような数式を組み込んで、その余りを別名義の隠し口座に流していたんですよ。ほら、ここをこうして、こう読み解くと……」
トアは手際よく炭筆を動かし、レオが数日間悩んでいた複雑な暗号数式を、ものの数秒で、まるで子供のパズルでも解くかのように完璧に紐解いてみせた。
「差し引きで、年間およそ三千万クローネ。これが、当時の『北部守備隊』の裏金になっていた計算になりますね。古文書館の地下二階にある、当時の日記と照らし合わせると、辻褄がぴったり合います。」
「…………は?」
レオンハルトは、人生で初めて、完全に思考を停止させた。
目の前にいるのは、魔力も地位もない、ただの下級平民の書記官だ。
だが、その頭脳が行ったことは、宮廷の最高峰の財務官や大魔導師たちが束になっても成し得ない、「国家の歴史的欺瞞の完全解読」そのものだった。
「トア……お前、一体何者だ……?」
レオの声が、驚愕と、初めて覚えた本物の恐怖で僅かに震える。
「え? 何者って、ただの書記官ですよ? 古い本を読むのが、ちょっと人より得意なだけです!」
トアはいつも通り、おっとりと首を傾げて微笑んだ。
その無自覚な規格外さ、自らの持つ知性が「世界を滅ぼしかねない戦略兵器」であるという自覚のなさに、レオンハルトは全身に鳥肌が立つのを感じていた。
(この男は……怪物だ。もし、その異端の頭脳が、兄や他国のスパイに知られれば……間違いなく、国家のバランスが崩壊する。生かして幽閉されるか、あるいは利用され尽くして殺されるかだ。)
レオンハルトの冷徹な理性が、即座に結論を弾き出した。
そして同時に、彼の冷たい胸の奥に、かつてない強烈な感情が湧き上がった。
――この男を、世界の濁流から、何が何でも守り抜かねばならない、と。




