第35話 春陽のまどろみ
本日は2話連続投稿です!
王都を揺るがした二人の皇子の陰謀劇から、数ヶ月。
第一皇子ルードヴィヒが幽閉され、トアの許しによって第二皇子レオンハルトが正当な『王太子』へと即位した帝国は、驚くほどの平穏を取り戻していた。
アルテリゼ公爵邸の広大な庭園には、ぽかぽかと温かい春の陽光が降り注いでいる。
白いパラソルの下、特製の木製テーブルの上には、トアが今朝じっくりと焼き上げたスコーンやベリーのタルトが綺麗に並べられていた。
「美味しい……っ! トア様、このスコーン、外はサクサクなのに中は信じられないほどしっとりしています!」
近衛騎士団副官バルトの妹、シエラが、小さな手を少し泥だらけにしながら嬉しそうにスコーンを頬張っている。
「それは良かった。シエラちゃん、お庭の土いじりをお手伝いしてくれてありがとう。お茶の代わりには、胃に優しいハーブティーを淹れてみたんだよ。」
トアは穏やかな笑みを浮かべ、少し不自由な手つきでそっとティーポットを持ち上げ、シエラと、その隣で相変わらず胃を痛める生活から解放されて生き生きとしているバルトのカップへとお茶を注いだ。
「トア様、本当にいつも申し訳ありません……。閣下が軍本部の御前会議に出席されている隙に、こうしてトア様の手料理をいただくなど、もし閣主に知られたら……」
バルトの灰色髪の獣耳が、喜びと恐怖でピコピコと細かく震えている。
「いいんですよ。リゼさんには、帰ってきたらもっと特別な、彼女の大好きなラム肉の煮込みを用意してありますから。」
トアがクスリと笑った、まさにその瞬間だった。
ガクン、と。
何の前触れもなく、トアの首が力なく前方へと傾いた。
その翡翠の瞳は吸い込まれるようにして静かに閉じられ、手に持っていたティーポットが、トアの脱力した指先から滑り落ちそうになる。
「――っ! トア様!?」
バルトが血の気の引いた顔で身を乗り出し、落ちかけるティーポットを間一髪でキャッチした。
テーブルに突っ伏す寸前だったトアの細い身体は、背後から音もなく伸びてきた、あまりにも馴染み深い逞しく温かい腕によって、完全に受け止められていた。
「トア……っ! 間に合って、良かった……!」
いつの間にか庭園に現れていたのは、軍本部の会議を驚異的な速さで終わらせて(あるいは放り出して)帰還した、我が家の男前すぎる家長――アルテリゼだった。
「か、閣下!? いつからそこに――」
バルトがガタガタと椅子を蹴立てて直立不動の姿勢を取る。
リゼはバルトの言葉など耳に入っていないかのように、胸の中にすっぽりと収まったトアの身体を、壊れ物を扱うように愛おしそうに、ぎゅっと抱きしめていた。
彼女のプラチナブロンドの髪の隙間から覗く「竜の耳」は不安と愛おしさでペタンと伏せられ、軍服の裾から覗く太い「竜の尻尾」は、トアを起こさないよう、芝生の上を――すり、すり、パタ……と、ひどく不器用かつ優しく揺れ動いている。
「先ほど邸宅に帰着した瞬間、トアの魔力波形が急激に睡眠期へと移行したのを察知してな。……バルト、シエラ。トアを驚かせぬよう、声を落とせ。我が夫は、いま命の洗濯(自己防衛の昏睡)に入られた。」
あの過酷な拉致事件が遺した、唯一にして最大の爪痕。
トアの肉体に浴びせられた劇薬と暴力の負荷による、「何の前触れもなく、突発的に深い昏睡状態に陥る」という神経の後遺症。
それは、傷も毒も完全に癒えたはずのトアに刻まれた、文字通りの『代償』だった。
「トア、可愛い我が番よ……。今日も実に見事な寝顔だ。だが、冷たい机に頭をぶつけそうになるなど、やはり私の過保護(警護)が数秒足りなかったな。猛省せねばならん。」
リゼは大真面目な顔でそう呟くと、トアを横抱き(お姫様抱っこ)にし、軽々と持ち上げた。
トアの身体は、帝国最強の半竜である彼女にとっては羽毛のように軽い。
「閣下、トア様を私室のベッドへお運びしますか?」
バルトが気を利かせて尋ねるが、リゼは即座に首を振った。
「否。ベッドに一人で寝かせては、万が一、目覚めた瞬間に私が隣にいないという絶望をトアに与えてしまうかもしれない。それに、今のトアは体温が僅かに下がっている。……私のこの竜の体温で、内側から完璧に温め直す必要があるのだ。」
リゼはそう言うと、庭園の大きな長椅子に堂々と腰掛け、トアの身体を自身の膝の上にすっぽりと乗せ、自らの軍服の大きな上着で彼の全身を包み込んだ。
さらに、背中から漆黒の巨大な「竜の翼」をドサリと半分だけ出し、まるでトアを外敵から完全に遮断する繭のように、優しく覆い隠してしまったのだ。
「……あの、閣下。これでは、トア様が起きるまで私たちは……」
バルトが恐る恐る尋ねる。
「貴様たちは、トアが作ったハーブティーを静かに楽しむが良い。ただし、 咀嚼音は最小限に留めよ。トアの極上の睡眠を妨げる者は、我が近衛の副官であっても、国境の荒野へ一ヶ月の遠征に処す。」
「ひっ……! は、御意に……っ!」
バルトは音を立てないよう、細心の注意を払いながらスコーンを口に運び、胃を押さえた。
シエラはそんなリゼの「徹底的すぎる過保護ぶり」を見て、クスクスと楽しそうに笑っている。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから、およそ三十分が経過した頃。
リゼの逞しい胸の鼓動と、竜の心地よい体温に包まれていたトアの睫毛が、微かにピクリと動いた。
「……ん……、……ぁ……」
トアの瞳が、ゆっくりと、静かに開かれる。
視界に飛び込んできたのは、自分を上から愛おしそうに見つめる、リゼの美しい琥珀色の瞳だった。
「あ……リゼさん。……また、やってしまいましたか?」
トアはまだ少し眠気の残る声で、リゼの胸元に顔を埋めたまま、小さく微笑んだ。
その瞬間。
リゼの頭上の夜色の耳が、待ってましたとばかりにピコピコと狂ったように跳ね、軍服の裾の太い竜の尻尾が、――ポンッ、パタパタパタパタパタ!!!と、長椅子の背もたれや芝生を激しく、歓喜のままに叩き始めた。
「トア……っ! 目覚めたか、我が愛しき夫よ! 気分はどうだ? どこか痛むところはないか? 頭痛や目眩は? 私が誰だか分かるか!?」
「ふふ、大丈夫ですよ。リゼさんの心臓の音がすごく心地よくて、よく眠れました。……ここは、お庭、ですか? というか、この大きな翼は……」
トアが自身の身体を包み込んでいる漆黒の巨大な竜の翼に触れると、リゼは真っ赤になって慌てて翼を背中へと引っ込めた。
「し、しまった……。君の身体を冷たい風から守るためとはいえ、このような無骨な異形を密着させてしまうとは、不覚。トア、怖くはなかったか?」
リゼは耳をペタンと伏せ、ひどく心配そうな顔でトアの顔を覗き込む。
そんな彼女の「過保護で、どこまでも一途な不器用さ」が、トアにとっては愛おしくてたまらなかった。
トアはリゼの軍服の上着から腕を伸ばし、彼女のプラチナブロンドの髪を、あの底なしの温かい包容力で優しく撫でた。
「怖くなんてありませんよ。リゼさんの翼は、世界で一番温かくて、格好良くて……大好きです。」
「ト、ア……貴方という人は……っ!」
リゼは顔を真っ赤に染め上げ、今度は制御を完全に諦めたらしい尻尾で、激しく周囲の芝生を叩き散らしている。
そのあまりの可愛らしさに、トアの胸は激しく撃ち抜かれていた。
「閣下、トア様。お茶が冷めてしまいましたので、新しく淹れ直しますね。」
バルトがようやく安堵の息を漏らし、笑顔で立ち上がった。
シエラも「トア様、おはよ!」と元気に手を振っている。
身分違いの格差婚。
何の前触れもなく眠りに落ちてしまう不自由な爆弾を抱えることになったトア。
彼が眠るその瞬間も、目覚めるその瞬間も、帝国最強の半竜女公爵が、その強靭な腕でいつだって世界一甘く、過保護に抱きとめ続けてくれる。
「リゼさん、お腹空きませんでしたか? 預けておいたラム肉、今から一緒に煮込みましょう。」
「ああ、トア。君の料理を食べるためなら、私は生涯、君をこの腕から放さないぞ。」
夕暮れ時の優しい光に包まれながら、二人の甘々で騒がしい、そして誰よりも幸福な日常は、これからも続いていくのだった。




